日野の渡し

立川側から見た日野の渡し跡
立川側から見た日野の渡し跡

江戸時代初期、五街道のひとつとして整備された甲州街道(当時は甲州海道)は、当初、府中分倍河原から多摩川の低地を通り、多摩川を万願寺で渡っていました。しかし、多摩川の氾濫で街道が分断されたことにより、街道は河岸段丘の上の現甲州街道に移 されました。

それと共に、貞享元年(1684)、それまでも多摩川の対岸、柴崎村(現立川市)への農耕作業などで使われていた日野の渡しが甲州街道の正式な渡しとして決められ、以後、大正15年(1926)年まで240年あまり、使われ続けました。

渡しは有料で、人と馬の料金がそれぞれ定められていました。僧侶、武士、そして宿の人々は無料で利用ができました。その経営と管理は、日野宿が行い、渡船料は宿場の収入源ともなっていました。

日野から見た日野の渡し跡
日野から見た日野の渡し跡

現在に模していえば、新しいバイパスが開通し、そこに架けられた有料橋を地元の自治体が管理運営するようになったわけです。

渡しは多摩川の冬期の渇水期には土橋が使われ、3月から10月までは船によって行われていました。江戸時代後期、文政7年(1824)からは通年船による渡しに改められています。

日野の渡し跡解説板
日野の渡し跡解説板

船に使った船は歩行船(長さ6.4m、幅1.2m)1艘、馬船(長さ11.8m、幅2.7m)2艘があり、渡し賃は資料によると、延享年間(1744〜48)の一人3文から4文、文政7年(1824)には10文、天保5年(1834)には13文、慶応4年(1868)には30文となっています。これは平水時の渡し賃で、増水時には割り増し料金となりました。

江戸時代が終わり明治になると、渡しはの経営は宿場から町へ移され、毎年入札により決められた請負人が渡し船を運行し、定められた一定額を町に納入する方法になりました。

明治22年(1889)8月、甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると渡しの通行量が減少し始めました。また、大正時代に入り自動車が輸入され、通行するようになると橋がないことが問題になり始めます。

立川側にある渡船場碑
立川側にある渡船場碑

「馬船2艘並べ、その上に横に長い板を敷き並べ、その上に自動車を乗せて対岸へ運んだ」と伝えられるような不便が生じてきたのです。

大正15年(1926)日野橋とその取り付け道路が完成し、日野の渡しは長い歴史を閉じています。

描かれた日野の渡し

谷保方面から現在の日野橋交差点付近まで河岸段丘上を来た甲州街道は、根川と多摩川の氾濫減を一旦避けるために、崖線をなぞり弧を描くようにして、日野の渡しへ向います。

柴崎体育館東側にこの旧甲州街道が残っており、その正面に富士山を見ながら渡し場へ向うこととなります。

柴崎体育館脇の旧甲州街道
柴崎体育館脇の旧甲州街道

多摩川の流れ、丘陵から連なる山々、そして、その後に富士山。

その光景は昔も秀景の地として多く描かれています。

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