問屋場・高札場

日野図書館のある場所は、江戸時代には問屋場・高札場があったところです。問屋場は日野宿で最も重要な施設でした。

問屋場には大きく2つの大切な役目がありました。

ひとつは人馬の「継立(つぎたて)業務」です。江戸幕府の公の仕事で旅をする侍や参勤交代などで宿場を利用する大名一行のために、馬25匹と人足25人をいつでも用意できるようにしておき、荷物を次の八王子宿や府中宿まで運べるようにしておくこと。

もうひとつが幕府から出される公の書状(手紙)や品物を次の八王子宿や府中宿まで届ける継飛脚(つぎびきゃく)という「飛脚業務」を行うことでした。

ちなみに日野宿を利用した大名は、高島藩諏訪氏、高遠藩内藤氏、飯田藩脇坂氏(のち堀氏)のほぼ信濃国三藩といった小藩でした。

日野宿には飯盛女などはいなかったようなので、一般の旅人のほとんどは八王子宿や府中宿に宿泊し、日野宿は休憩用の宿として考えられていたようです。それでも、幕府の役人や富士山や身延山などへの寺社参詣人などが宿泊した記録が残っており、宿として玉屋、東屋、柏屋などがあったそうです。

『甲州道中分間延絵図』に描かれている日野宿の問屋場と高札

日野宿の問屋は月初めから15日まで下佐藤家が、16日から月末までを上佐藤家が担いました。幕末期の日野宿の問屋は佐藤彦五郎と上佐藤の佐藤芳三郎の両名主でした。問屋の補佐には20組の年寄(組頭)40人が当たり、2人ずつ昼夜詰めました。その配下に帳付けや人馬を割り振る馬指(うまさし)25人などがいました。

一方、日野宿の高札場は問屋場前にありました。江戸幕府から出された法度(はっと)や掟書(おきてがき)などの御触書(おふれがき)をこの高札に書き出し、日野宿の領民や旅人に周知させるのが目的でした。

現在、日野図書館前に日野宿問屋場高札場跡の石碑が建っています。ここに用いられている石材は明治42年(1909)10月に架けられたに大門橋に使われていた御影石です。

甲州街道日野宿問屋場高札場跡の石碑
井上博司氏撮影

参考

  • 図録 日野宿本陣 佐藤彦五郎と新選組 日野市新選組まちおこし室制作 日野市 2004.3

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