甲州道中日野宿
元亀元年(1570)には、この地を支配する北条氏照によってすでに日野宿の屋敷割りが行われていたといいます。後に江戸幕府が開かれ、慶長10年(1605)に代官頭大久保長安によって甲州道中が整備される段になると、すでに形ができていた日野宿は宿駅として相応しかったといえます。
甲州に向け日本橋を発って、内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中に続く宿駅が日野宿です。宿の大きさでは両隣の府中宿や八王子宿ほどではなかったものの、多摩川の日野の渡し(貞享元年以降、それ以前は万願寺の渡し)の経営・管理という重要な役目を担う特別な宿場でした。
幕府の直轄地である日野宿は、伊豆韮山(現伊豆の国市)の代官江川家の支配下にありましたが、本陣・脇本陣並びに問屋場(道中奉行支配下)を含めた宿の実質的な経営は、日野本郷の名主と日野宿問屋を兼帯世襲する上佐藤と下佐藤の両名主のもとによって執り行われていました。
宿内は上宿(加組)、中宿(仲宿)、下宿からなり、枝郷として、東光寺、四谷、北原、山下、仲井、谷戸、万願寺がありました。
「宿村大概帳(しゅくそんだいがいちょう)」によると、天保14年(1843)ごろには、人口が1556人、本陣1、脇本陣1、家数は423軒、旅籠数は20軒あり、甲州道中では4番目に大きな宿場でした。
日野宿は、永禄10年(1567)に佐藤隼人の指揮のもとに開削され、宿内に張り巡らされた日野用水のお陰で、稲作による収益が高く、「多摩の米蔵」と言われるほど当時としては豊かな宿場でした。