日野宿のお寺

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如意山宝泉寺

宝泉寺本殿(新)
井上博司氏撮影
宝泉寺(日野本町3-6-2)ひのっ子日野宿発見HP「如意山宝泉寺」へジャンプ

三鷲山鶴樹院大昌寺

大昌寺(日野本町2-12-13)         三鷲山鶴樹院と号し、浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。
この地にはもと金峰山と称する天台宗の寺院があった。この旧跡に大善寺(八王子市)の讃誉上人が隠退後、住民に懇願され堂宇を創建して大昌寺と号するに至った。慶長7年(1602)のことである。第15世湛誉林道大和尚(寛保3年-1743-6月4日寂)の代に再建された堂宇は、大正12年(1923)の関東大震災に被災、昭和4年に修復した。修復前は寄棟造萱葺きであった本堂は、このとき入母屋破風造亜鉛板葺きに改めた。本堂内は内陣とこれをとり巻く5部屋の外陣、廊下(1間半)とから成る。
本堂須弥壇に本尊阿弥陀如来像・脇侍観世音・勢至両菩薩像が、位牌堂には法然・善導両大師像、開山讃誉、中興湛誉両上人像・地蔵菩薩立像(木彫金泥高さ1尺3寸)が安置される。山門は建築の年代を伝えないが、造りは重厚で、上部の彫刻は巧緻である。鐘楼は明治36年(1903)に改築。梵鐘は享保2年(1717)の鋳造で、鋳匠は多川民部見蔵であったが、第二次大戦中供出された。鐘銘も不明となるところであったが、郷土史家山上茂樹の拓本によって、その法韻(仏法の音)を伝えることを得た。内陣にあった青銅製の大灯籠jも前記多川民部の作であったが、これも供出された。
当時の寺宝で東京都重宝(典籍)となっている『説法色葉集』10巻は、天正13年(1585)開山讃誉上人の筆になる。讃誉上人の墓は高さ3尺余りの自然石で、市史蹟に指定されている。また幕末の新選組や農兵隊の育ての親であり、明治11年代の南多摩郡長となった佐藤俊正(彦五郎)や幕末に江戸の狂歌師絵馬屋三世をついだ玉川居祐翁の墓(市史蹟)等がある。
(『日野市史民俗編』より)

嶺北山碩伝院欣浄寺

平成28(2016年)12月に新築された欣浄寺本殿
入野祐子氏撮影
欣浄寺(日野本町4-16-17)   ひのっ子日野宿発見HP「嶺北山碩伝院欣浄寺」へジャンプ                     

土淵山観音院普門寺

普門寺本堂(新)
2024-05-16
普門寺(日野本町7-5-19)        土淵山観音院と号する。真言宗智山派に属し高幡金剛寺末であった。
『新編武蔵風土記稿』によると、応永5年(1398)に僧義雲が草創し、本尊は聖観音立像。客殿に安置してあった。天王社(今の八坂神社)に社領14石が寄進されていてその別当寺であった。寺伝によれば、文安元年(1444)3月7日入寂した智伝によって中興されている。
当初の寺域は現在地より西方の、本宿と呼ぶ古宿の付近にあった。そこにあること170余年、元亀元年(1570)清宥代になって現在の地に転じた。旧敷地や井戸等は、延宝3年(1675)入寂した仙慶の代に至って埋没したと伝えられている。
明治初年には境内の広さ850坪、堂宇も広く、本堂は日野小学校創設の際、仮校舎となった。明治11年(1878)校舎の新築に伴って、境内はほとんど学校敷地となり、堂宇も多く取り払って寺院の規模は著しく縮小された。現在の本堂は、下河原にあった廃寺西明寺の本堂を移築したという。明治末年にこれを改修、続いて大正初頭庫裏を改築した。本堂は間口4間半・奥行4間、宝形造、亜鉛板葺き、庫裏は間口4間・奥行2間半4柱造瓦葺きである。
本堂は聖観世音菩薩坐像木彫金泥、高さ1尺6分、円光を含め1尺3寸2分あり、元和2年(1616)12月造立の旨が台座に墨書きされている。なお明治30年(1897)諦雅の代に修復された。仏師は斎藤源興である。不動明王三尊像は木彫坐像。地蔵菩薩坐像2体は木彫、高さ約7寸である。弘法・興教両大師木彫坐像は高さ約1尺、高幡金剛寺から伝えられたものである。
本寺は、多摩四国八十八か所霊場の第八十四番札所である。(『日野市史 民俗編』1983年刊より)

平成26年(2014)1月11日に火災にあい本堂を焼失したが、数年後に再建された。

萬照山東光寺成就院

落慶した本堂
2018-04-01
井上博司上撮影
成就院(栄町5-5-1)ひのっ子日野宿発見HP「萬照山東光寺成就院」へジャンプ
寛政6年(1794)に建立された本堂は、平成30年(2018)4月1日に建て替えられた。

日輪山薬王寺

薬王寺(栄町1-32-2)         日輪山と号し、真言宗智山派高幡山金剛寺であった。本尊は大日如来で木彫1尺6寸5分の坐像である。
当山開基については明らかでないが、慶長11年(1606)9月8日僧覚心が中興開山の旨の刻板が発見されている。
本堂は宝暦年間(1751-1764)消失したが、その後再建して今日に及んだもので間口3間・奥行3間半、宝形造亜鉛板葺きである。庫裏は間口4間・奥行5間、山門は4脚・間口1間半、以上いずれも東向きである。
江戸時代、幕府から高9石5斗の朱印地を請けており、明治初年までは日野宮権現の別当として同社を管掌してきた。境内730坪、欅の巨木をはじめ竹林がうっそうと茂っている。また本寺金剛寺住職の隠遁寺、もしくは金剛寺普山候補の者の住職でもあった。
幕末期のものと思われる日野宿寺社領絵図を見ると、往時の薬王寺領の景観をうかがうことができるが、上宿から四谷道途中の石橋から西に向かって入る参道も、明治22年(1989)甲武鉄道の開通によって、寺領の田畑と共に分断されてしまった。『新編武蔵野風土記稿』に載る四ツ谷薬師堂は、その別当薬王寺の側にあって、規模は6間に6間半あったといわれるが、その後いつの年代かに姿を消した。また山門外にあった弁財天の遺構は現在も残っているが、弁財天はいつの時代かに高幡不動尊の境内に遷座されたと伝えられる。(『日野市史民俗編』より)

時を経て、昭和の末期、鬱蒼とした欅や竹林は夫婦銀杏を残しほとんど伐採され、本堂なども解体された。その後平成4年(1992)に住職を迎え再建に取り組まれ、ついに平成20年(2008)本堂を落慶するに至ったという。

参考 『開山四百年記念誌 三宝』日輪山薬王寺 2009年

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