「とうもろこしを食べない」という話
東光寺に住んでいる和田一族の先祖は和田義盛という武将だったそうです。
重盛は、源頼朝が治承4年(1180)に起こした戦に一族で駆け付け大きな手柄を立てました。それによって義盛は初代侍所別当(さむらいどころべっとう)という高い位につくことができたのでした。
ところが、建保元年(1213)2月に、義盛は一族の人たちと反乱を起こします。結局ほとんどの人たちが討ち死にしてしまいます。実はこの時、義盛はとうもろこし畑に逃げ込んだため、足をとられて倒れたところを敵に殺されてしまったのでした。
生き残った和田一族の人たちは義盛の死を悼み、それからはとうもろこしをいっさい食べないということです。
(谷春雄氏談 田中紀子氏採録 「日野の歴史と文化 第17号」を元にリライトしました)
参考:『新編日野百物語』(日野宿発見隊編集・発行 平成30年10月発行)
郷土誌ライブラリー 95 とうもころしを食べない人びと
一方、土淵英夫氏は『八坂の杜』の「郷土誌ライブラリー 95 とうもころしを食べない人びと」で、次のように紹介しています。
「前文略 義盛が「とうもころし畑」で戦死したという古記録はないようです。
真相は、和田家の何代か前の人々が、鎌倉に行き、義盛の墓を詣でたとき、その墓地が「とうもろこし畑」になっていて、たいへん哀れをさそったということでしょう。
その後、ある和田家の子供が「とうもろこし」を食べながら、増水した川に溺死した事故がありました。遺体をひきあげたところ、口の中に、まだとうもろこしをたくさん含んでいたということです。
こうしたことがあって、和田家は、そのふびんさに「とうもろこし」を忌むようになったということです。(お話は、和田義久氏に伺いました)」