大正・昭和に廃止になった中央線の踏切
日野宿内にかつてあった中央線の2つの踏切を紹介します。ひとつは大正時代に、もうひとつは昭和時代に廃止になりました。
四ツ谷にあった踏切
四ツ谷の小島茂雄さんの『四谷のむかし』にこんな記事があります。
明治22年(1889)に八王子までが開通した甲武鉄道でしたが、「日野駅と多摩川の鉄橋間の線路は盛土で、高さ約2、3mであった。線路は部落から東へ通じていた村道を南北に横断したので、村道には踏切が作られた。線路の東側土手中段に一戸建ての家があり、夫婦が住んでいた。主人は国鉄の保線区に勤め、おかみさんは踏切番をしていた。踏切に面して出入り口があり、いつも開け放しとなっていた。上りがまちに時計が置いてあったのが記憶に残る。」と記しています。
そして、汽車は1時間に一往復とはいえ、高さが2、3mの踏切に取り付けた道路は急坂となって、荷車に重荷を積んで超えるのは大変苦労したといいます。

2009-09-26
井上博司氏撮影
四ツ谷の人々は30年近くこの不便さに耐えました。そして漸く四ツ谷のの願いが叶い、中央線下の切通し工事も含めた新道建設が大正9年(1920)12月1日に始まり、翌年の大正10年3月11日に完成します。工事請負は立川の大丸組でしたが、地元の男衆も工事に駆り出されたそうです。

四ツ谷ガード下を行く老人 1955頃
加藤高則氏撮影
四ツ谷の人たちがこの新道完成にどれだけ歓喜したことでしょう。それから70年近く経った昭和28年(1953)3月11日、この史実を顕彰するための記念碑が建立されました。

2024-07-07
日野駅の南側にあった甲州街道踏切
甲武鉄道が明治22年(1889)に八王子まで延伸したとき設置された旧甲州街道踏切は昭和56年(1981)12月3日をもって閉鎖されました。代わりに大坂上地区から日野駅へ通じる道路として、写真No.1126の下側に見える大坂上通りが整備されました。
これは余談ですが、日野駅から東京駅までの立体交差化がなされ、日野駅以東に踏切は一つもないそうです。

昭和40年代
日野市郷土資料館所蔵

日野駅南側踏切 昭和40年代後半
南側から見た踏切
井上博司氏撮影