八坂神社/牛頭天王
以下、『日野市史民俗編』を参照させていただきました。
八坂神社の祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。
合祀神には倉稲魂命(うかのみたまのみこと/稲荷)・櫛御気野命(くしみけのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと/山王)が祀られています。
例祭日は現在は9月15日・16日となっています。
本殿は棟高3間2尺で総欅造。隆造の正面屋根に千鳥破風(はふ)と、軒唐破風を設け、建物の壁面は、床上床下ともに木彫装飾をとりつけ、柱・梁貫(はりぬき)・高欄(こうらん)に至るまで、その木部表面に薄肉彫りの文様を彫るなど、きわめて装飾的な社殿造。すべて素朴で彩色なし。間口5間、奥行5間、向拝は亜鉛板葺きで、間口2間半、奥行1間半。昭和36年(1961)10月1日に日野市指定文化財に指定されています。
石造明神鳥居は大正12年(1923)造立。この鳥居には佐藤彦五郎の願いを受けて、有栖川宮熾仁親王が揮毫した「八坂社」の扁額が掛けられています。なおそれ以前(明治7年)までは、萬延庚申の銘のある「祇園社」の扁額が架けられていたそうです。
創祀年代は不詳ですが、社伝によれば、応永5年(1398)普門寺が、旧本宿辺に開創されたとき、その鎮守として牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)が祀られ、以来同寺は永くその別当をつとめました。その後、永享年間(1429-1441)権少僧都智伝が、社殿を造営中興し、元亀元年(1570)普門寺の移転に際し、当社も現在地に遷座されたといわれます。
慶安元年(1648)7月17日 徳川三代将軍家光が、天下安穏・国土泰平の祈願として、社領免除の旨を下し朱印地14石を寄進。以来徳川累代将軍寄進の朱印状写があります。なお享保17年(1732)別当普門寺住職長快が、牛頭天王像荘厳を本願し、佐藤八兵衛忠勝・土方甚八等講中の合力を得て、江戸の仏師に依頼し、翌年6月18日に完成、元文元年(1736)6月12日本殿に安置。その後社殿朽損の為、権大僧都法印尊盛が再興を計画、寛政12年(1800)同盛信の時完成。これが現在の社殿と思われるそうです。
覆殿(おおいでん)は平成8(1996)年に大改修され現在のような姿になりました。
現存する神輿は佐藤俊宣の発起により明治13年(1880)9月に完成しましたが、御仮屋その他の付属品とも、当時1000余円を費やしたといわれます。
参考
- 八坂の杜から-多摩郷土史研究- 土淵英夫/著 土淵あい子 1998.5
- 八坂神社と日野 遷都四百四十年記念 土淵貞房/著 土淵眞佐子/編 八坂神社 2010.9
- 八坂神社初代宮司 土淵英 日野の近代化に命を懸けた早世の人 土淵眞佐子/著 土淵眞佐子 2016.2
天然理心流奉納額
天然理心流の創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、二代目三助は戸吹(現八王子)、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁の深い剣術流派でした。そのようなこともあり天然理心流は佐藤彦五郎のような多摩の名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも広く習われていました。
安政5年(1858)に牛頭天王社(現八坂神社)に奉献された剣術額には、日野宿の剣士たち23名と嶋崎(近藤)勇、客分として沖田惣次郎(総司)の名が連署されています。
なおこの奉納額は5月の新選組まつりと9月の例大祭の期間に特別公開されています。
写真映像でみる八坂神社の今昔
牛頭天王社/牛頭天王宮
牛頭天王社の伝説
多摩川の淵から拾い上げられた牛頭天王像を勧請し祠を建てたのが牛頭天王社の始まりとされます。牛頭天王社は普門寺とともにもともとは本宿(日野駅の北東)にありましたが、牛頭天王社は元亀元年(1570)に現在の場所に遷座されたといいます。
しかし時を経て明治元年(1868)に、祭政一致を進めようとする明治政府によって発せられた神仏分離令により、明治3年(1870)牛頭天王社は別当であった普門寺から切り離されるとともに、名を八坂神社と改められ日野宿の総鎮守として新たな歩みを始めたのでした。
牛頭天王宮(社)のお札
写真左から2枚目は八坂神社の前身である牛頭天王宮(社)のお札です。子どもたちとまち歩き会で谷戸の旧家谷家を訪ねたときに見せていただきました。「日野本郷惣社」「神祗感應御祈祷御祓」「牛頭天王宮」「神主 宮崎伊豫守」とあります。明治になる前の牛頭天王宮のお札と思われます。