日野宿の人々に語り継がれる戦争の記憶

ここでは日清、日露戦争、第一次、第二次世界大戦と度重なる戦争に翻弄された日野宿の市井の人々に今も語り継がれる戦争の記憶を紹介します。

平野哲夫家に語り継がれる戦争の記憶

平成22年(2010)10月2日(土)開催の日野宿子ども発見隊「まちを調べよう!パート2」(特別企画第2弾)で訪ねたときに見せてもらった、戦時中の新聞やさまざまな戦争遺物です。平野さんご自身が描かれた昔の日野宿の絵もたくさん残されています。

保存されている戦争遺物
平野宅
2010-10-02
井上博司氏撮影
高射砲の破片
2010-10-02
山田ゆみ氏撮影
戦時中の新聞
2010-10-02
山田ゆみ氏撮影
墜落したB-29の破片
2010-10-02
山田ゆみ氏撮影
戦時中の新聞
2010-10-02
山田ゆみ氏撮影

谷和彦家に語り継がれる戦争の記憶

平成22年(2010)10月2日(土)開催の日野宿子ども発見隊「まちを調べよう!パート2」(特別企画第2弾)で訪ねたときに見せてもらった、戦時中に防空壕として使ったという洞穴です。当日は谷和彦さんの叔父にあたる谷富二さんから当時の様子などをお聞きしました。

防空壕として使われた洞穴
2012-10-02
防空壕として使われた洞穴
2012-10-02

馬場収家に語り継がれる戦争の記憶

仲町の馬場収家に残されている戦時中の写真です。空襲に供えて行われた防火訓練の日に撮られた1枚です。

昭和17年(1942)4月に初めて日本の本土が空襲を受けたといいます。日野宿ではまだ直接的な被害が出ていなかったためか、女性にかすかに笑顔が見られます。

№0413
防火訓練 1942 
馬場収氏所蔵

そんな日野宿でも昭和20年(1945)4月4日には最大規模の空襲があり、上田・宮・下河原(したがわら)・東町(あずまちょう)地区にかけての地域で30人あまりもの死者が出たのでした。

昭和21年(1946)に東町自治会により犠牲者の慰霊のための地蔵堂(延命地蔵)が建立され、現在も供養が続けられています。

東町にある延命地蔵堂
2024-07-08
東町の延命地蔵さま
2024-07-08

村野家に語り継がれる戦争の記憶

昭和12年(1937)12月10日、中国大陸で戦死した豊田在住の村野宗一郎さんの町葬の様子を撮った写真です。青年団の一員として参加した志村章さんによって撮られたものです。

その年は7月7日に盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まった年でした。日野宿でもこうして戦争の犠牲者が生まれていたのでした。なお、この葬儀の模様については日野市中央公民館発行の『日野の昭和史を綴る』に詳しく掲載されています。

日中戦争が始まった当初は戦死者の武勲を称え、こうして町による盛大な葬儀が営まれていましたが、戦争が激化するとそうした町葬はいつしか姿を消しました。

№0513
村野宗一郎君町葬 1937
日野尋常高等小学校
志村章氏撮影

鈴木邦夫家に語り継がれる戦争の記憶

下河原の鈴木邦夫さんの父英夫さんは国民学校の訓導(教師)をされていました。出征壮行には教え子たちも駆けつけ見送ってくれたそうです。

昭和19年(1944)ですから戦況はかなり厳しくなっているころなのですが、まだ子どもたちに笑顔が見えます。子どもたちの願いが叶い、鈴木訓導は無事生還し戦後も引き続き学校教育に携わったということです。

№1641
出征兵士の壮行1944(1)
真野保氏撮影
№1642
出征兵士の壮行1944(2)
真野保氏撮影

天野トメ家に語り継がれる戦争の記憶

こうして村の人たちに見送られて勇ましく出征した四ツ谷の天野出男(いづお)さんでしたが不運にも戦死されたそうです。

№0625
出征祈願 1942(2)日野宮神社鳥居 - 四ッ谷 - 
背後に中央線の土手が見えます
天野トメ氏所蔵
№0626
出征祈願 1942(3)日野宮神社境内 -四ッ谷-
天野トメ氏所蔵

天野健男家に語り継がれる戦争の記憶

四ツ谷の天野建男さん(屋号「銀行」)の出征の時の記念写真です。

№1207
出征兵士の壮行 - 天野健男氏
戸高三代子氏所蔵

松本季男家に語り継がれる戦争の記憶

武運長久を祈って八坂神社に詣でる出征兵士の一行と迎える土淵英宮司。昭和15年(1940)ですから第二次世界大戦の始まる直前、日中戦争中です。出征した松本季男さんは無事生還できました。

0482
出征祈願 1940 - 松本季男氏
松本季男氏所蔵

真野泰久家に語り継がれる戦争の記憶

真野設備の社長、真野光久さんの出征時の記念写真です。真野さんは無事戦地から生還し、手がけた井戸堀業で最初に掘ったのが北原の松本保宅の井戸だったということです。

№0939
出征兵士の壮行‐ 真野光久氏
昭和10年代
真野泰久氏所蔵

仲町の人々に語り継がれる戦争の記憶

昭和20年(1945)3月10日、午前9時30分頃、立川を空襲に来た米軍機の中のグラマン機一機が、現在の一中のバックネット南側の用水の淵に一発の爆弾を落としました。

その爆発で仲町のほどんどの所に、コンクリートの破片、石、泥、また川の魚まで飛び散り、屋根をぶちぬいたり、窓ガラスが割れたりして、町じゅう泥だらけになり、大変な惨事でしたがケガ人がでなかったのが、不幸中のさいわいでした。

この爆弾の穴は、直径10m位、深さが5m位もあり、何年間もそのままになっていたので、用水の水がたまって子供達の水遊びや、魚釣りの場所になりました。

仲町でただ一つの戦争のつめあとでした。(『私たちのの町仲町』より)

参考

  • 聞き書き日野の昭和史を綴る 日野の昭和史を綴る会/編 日野市中央公民館 1994

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