絵本『ひのっ子日野宿発見』の18項目に収まらない「日野宿のこぼれ話」を紹介します。
少々マニアックなところもありますが、一般の方にもお読みいただける内容ですので是非ご活用ください。
index
「ひのっ子日野宿発見」の18項目内に掲載されている記事と、それ以外の「日野宿のこぼれ話」に掲載されているすべての記事を9分類に整理してあります。なお「日野宿のこぼれ話」内の記事のみ塗りつぶしになっています。
詳しい話
- 2024-12-25東光寺の成就院裏にちょっとした坂があります。かつてこの下付近に谷地川からの用水取水口がありました。 実はこの下、ちょうど東光寺グラウンドの南側の田んぼに、明治20年(1887)12月11日、有山彦吉(1861-1944)が氷製造所(製氷所)を作ったとの記録もあります。(『河野清助日記』より) 「東光寺西河原ニテ有山彦吉氷製造所御ヲ設クル。三間四間土蔵氷カコヒニ建ツ」(明治20年12月11日)「東光寺西河原ニテ有山彦吉氷製造ヲス。氷切リ蔵詰アル」(明治21年1月2日) 参考:上野さだ子著「日野の天然氷ー日野製氷所ー」(『日野用水450年!ー昨日と今日、そして明日へー』) №0557少年2人 - 成就院 1956頃石井宏融氏所蔵 №0555谷地川からの用水取水口石井宏融氏所蔵
- 2024-12-25北原の松本さんたち日野自動車優和会のみなさんは毎年門松を手造りされ、日野市役所や日野自動車本社などに寄贈されています。11月から12月にかけての3日間にかけて取り組まれた門松作りの様子を見せていただき、ここに記録に留めさせていただきました。
- 2024-12-23大正、昭和の日野宿を走った人力車、自転車、舟、オートバイ、荷車(大八車)、トロッコ、耕運機、自動車、ジープ、消防車、バス、トラック、ブルドーザーのほか、上空を飛んだ飛行機やヘリコプターなどの乗り物を写真と映像で紹介します。
- 2024-12-23日野宿には日野台地に上がるための坂がたくさんあります。今では姿を消した坂、新たに生まれた坂など、主な坂を紹介します。
- 2024-12-23絵本『ひのっ子日野宿発見』の18項目に収まらない「日野宿のこぼれ話」のインデックスです。
- 2024-12-23大正天皇と昭和天皇の二代の天皇即位を祝って執り行われた式典の写真を紹介します。
- 2024-12-23昭和30年代初頭に日野宿で競馬をやっていたころの話です。
- 2024-12-23現日野一小付近 昭和10年代中頃 №0651現日野一小付近 昭和10年代中頃小池亮一氏所蔵 大工場の進出による児童数の急増に対応するため、昭和10年(1935)代中頃に、日野尋常高等小学校の建設用地として確保された付近の風景です。しかし、その後建設中の校舎は中島飛行機の工場として使用されたため、実際に校舎として使用されたのは昭和23年(1948)からでした。左手には大昌寺、右手には下佐藤家の大ケヤキが見えます。中央付近から左方向にのびるのは大昌寺坂へと通じる道です。 大昌寺山から日野小方面 1952頃 №1079大昌寺山から日野小方面 1952頃 横関勉氏撮影 大昌寺山から見た日野小。左手に増築校舎が見えるので昭和27年(1952)以降に撮られたものと考えられます。中央手前に見えるのは谷家です。 大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956 №0011大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956真野保氏撮影 大昌寺山から西から東へ、宝泉寺、八坂神社、大昌寺、大昌寺坂、一小方面を撮影した4枚の写真をパノラマ加工したものです。 大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956頃 №0576大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956頃志村章氏撮影 元の写真は、大昌寺山(現在の神明の台地)から、西から宝泉寺、八坂神社、大昌寺、大昌寺坂、一小と撮った4枚のスチール写真で非常に鮮明に映しだされています。これらの写真をもとに井上博司氏によりパノラマ化されたものです。樹木の生い茂った宝泉寺北側から右手(東)方面に流れる山下堀は写真のように改修工事が進められているところです。中央やや左手の杜は八坂神社。その右手に見える白い建物が広瀬屋(提灯屋、馬場家)。その後方に欣浄寺の本堂も見えます。 大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 2008 大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 2008-10井上博司氏撮影 昭和30年頃に撮影された写真とほぼ同じところから撮影したものです。大昌寺坂は姿を消し、代わりに馬場商会(ガソリンスタンド)前から神明の台地に抜ける神明坂が整備されました。また、八坂神社の南側に広がっていた一面の田んぼは姿を消し、民家や商業施設やマンションが立ち並び、すっかり変わってしまいました。 日野駅ホームから日野坂方面 昭和30年代 №0726日野駅ホームから日野坂方面 昭和30年代内山文子氏撮影 日野駅ホームから日野坂方面を見た写真です。中央左右に延びるのが甲州街道。その中央付近にゼネラルテレビの看板が見えます。写真右手には細見さんというそろばん塾があったとそうです。甲州街道の後方、田んぼの向こう側には東光寺道が通っています。 大昌寺山上から日野一小・役場・仲井方面を望む 1960 №0015大昌寺山上から日野一小・役場・仲井方面を望む 1960戸高要氏撮影 大昌寺山から見た日野一小とその周りに広がる田園風景です。写真手前一帯は山下の東部、右手は仲井とオリエント時計(現セイコーエプソン)工場で、雑木の枝の間には神明坂への道がわずかに見えます。手前の山下の田んぼの向こうには山下堀と農道が、さらにその向こうには川崎街道が横たわっており、彼方は、万願寺、石田方面。当時、小学校の東隣には消防署や役場がありましたが、現在はこのあたりは生活・保健センターなどになっています。(戸高要さん情報より) 甲州街道南側の町並み 1960 - 東方面 №0001甲州街道南側の町並み 1960 - 東方面戸高要氏撮影 現日野二丁目交差点付近から東方面。右手の日野一小通学路(旧大門通り)入口から左へ、戸高家(屋号は「佐野屋」)、風間製麺所、谷家(屋号は「鑰屋<かぎや>」)、末広屋乾物店、佐藤家(屋号は「藤屋」)、須藤金物店、松崎木工所、佐藤家(上佐藤家)、吉野八百屋、長田履物店、猪鼻輪業、佐藤家(下佐藤家)等が並びます。自動車の通行量は少なかったといます。(戸高要さん情報より) 『私たちの町仲町』よると、仲町の家の数は、昭和のはじめ頃は約75軒、昭和10年(1935)が約100軒、昭和40年(1965)が約200軒。 昭和8年(1933)、甲州街道は北側へ、今の道幅に広げられ、車道と人道に分けられてコンクリートでかためられ、堀はふたをされて下水になってしまったそうです。 戸高要さんによると、隣組には甲州街道を挟んだ反対側の何軒かも入っていた。道は今のような交通量ではなく人々の交流する広場だった。また子どもたちにとって通りはちょっとした遊び場だったそうです。写真右側の戸高家の家屋は昭和16(年(1941)12月に建て替えられたものとのこと。古くからある家には家印というものがあり、他の家と区別できるようにしていた。例えば、戸高家の家印(焼判)は山かさの下にカタカナの「サ」で、下駄、農機具などに付けていたとそうです。 甲州街道南側の町並み 2008 - 東方面 甲州街道南側の町並み - 東方面 2008-04-04井上博司氏撮影 昭和35年(1960)撮影当時と同一場所から撮影したものです。マンションやアパートが立ち並び、すっかり姿を変えてしまいました。 甲州街道南側の町並み 1960 - 西方面 №0001-02甲州街道南側の町並み 1960 - 西方面戸高要氏撮影 現日野二丁目交差点付近から西方面、日野駅方面を撮った写真です。写真の日野一小通学路(旧大門通り)入口から右へ、真野家(屋号は「青林堂」)、小池家(屋号は「糸亀」)、武蔵屋そば店(谷家)、坂口靴店、古谷呉服店、土方菓子店、天野乾物店、振興信用組合等が並ぶ。右手は扇屋酒店、天野魚店。信号は未設置。平成19年(2007)3月に撤去された歩道橋も未設置で、旧表示の横断歩道が設けられている。歩道は戦後レンガに替わりコンクリートブロックになった。彼方の木立は八坂神社。(戸高要さん情報より) 『私たちの町仲町』によると、真野家(青林堂)はかつてお菓子屋、後に駄菓子屋を営んでいた。高幡不動尊にお参りに行く人は、青林堂でおまんじゅうを買ってから高幡まで歩いたとそうです。 真野家の隣は小池家。仲田青果の大家さんは真野家。真野家の屋号は「スシ倉」。振興信用組合の建物は3階建てでこの辺で一番高かったとのこと。 『私たちの町仲町』によると、現在川崎街道入口、古谷家(屋号は「中の古谷」)の角に立つ写真の「高幡山不動尊道」の石碑(明治17年<1884>8月建立)はかつて旧大門通りの入口に立っていた。この石碑は大正13年(1924)から昭和初年にかけて建設された昭和横町(現川崎街道入口付近)ができたとき移設されたという。なお、昭和23年(1948)頃という異説もある。 昭和35年(1960)の写真に写る横断歩道のデザインと平成20年(2008)のデザインの違いがわかるでしょうか。『令和5年度調査研究報告書 横断歩道の道路標示の見直しに関する調査研究』(自動車安全運転センター調査研究部 令和6年3月)によると、昭和35年には現在に続く「道路交通法」が施行され、信号機のある交差点付近では「2本の側線型」、それ以外では「チェッカー型」の2種とされたそうです。戸高さんの撮られたこの写真は「チェッカー型」ですのでまさしくこのときに付けられた横断歩道のデザインだったわけだ。平成4年(1992)には、「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」が改正され、側線のないゼブラ型が採用されます。平成20年(2008)の写真に見えるのはそのゼブラ型で、現在に至っています。 甲州街道南側の町並み - 西方面 2008 甲州街道南側の町並み - 西方面2008-04-04井上博司氏撮影 矢島家前の田んぼ 1979 №1500矢島家前の田んぼ 1979矢島壽男氏撮影 現栄町一丁目矢島家の東側方面の様子です。家の前には一面の田んぼが見えます。中央には日野宮神社の大ケヤキの姿も見えます。この地区一帯は区画整理事業により大きく変貌しました。 四ツ谷薬王寺 1977 №0157四ツ谷薬王寺 1977松本保氏撮影 薬王寺は古くは日野宮神社の別当寺で、高幡不動尊の隠居寺としても使われていました。2本のイチョウの木と数本の欅の大木が存在し、鬱蒼とした森となっていました。薬王寺前の堀にあった梅の木は春の到来を真っ先に知らせ、その後、周りの田圃は一面のれんげ畑となりました。しかし、この地区の区画整理事業が進行するなかで辺りの様相は一変し、田圃は姿を消し、周りにはマンションや大型店舗が建ち並びます。そして、薬王寺の北東の中央線付近では、立日橋方面から東光寺方向へ抜ける道路のためにトンネルができました。また、薬王寺も本堂が建設されました。2本のイチョウの木は今も健在です。中央遠方に雪を冠った富士山が見えます。 日野市役所屋上から南側の眺望 1978 №1826日野市役所屋上から南側の眺望1978-03-24日野市立図書館撮影 昭和52年(1977)開庁となった日野市役所新庁舎の屋上から南側を撮った写真を井上博司氏によってパノラマ化された写真です。多摩丘陵の尾根、浅川、南平、平山方面が見えます。市役所南側の公園はまだなく、駐車場となっています。 日野市役所屋上から北側の眺望 1978 №1825日野市役所屋上から北側の眺望1978-03-24日野市立図書館撮影 昭和52年(1977)開庁となった日野市役所新庁舎の屋上から北側を撮った写真を井上博司氏によってパノラマ化された写真です。中央の道路にはまだ桜並木の姿が見えません。その道路の右側には実践女子短大の校舎が見えます。 蚕糸試験場日野桑園跡地 1980 №0169蚕糸試験場日野桑園跡地 1980松本保氏撮影 整地中の蚕糸試験場跡地を日野一中屋上から撮影した写真4枚(0169~0172)を、谷享司氏(井上博司氏補正)によりパノラマ写真に修整されたものです。この跡の手前にスポーツ公園が建設されました。 旧日野一中屋上より南東から西南 1980 №0173旧日野一中屋上より南東から西南 1980松本保氏撮影 旧一中校舎の屋上より南東から西南方面の町並みです。手前中央に福祉センター、中央公民館、日野児童館と並びます。神明上には市役所が見えます。 矢島家から薬王寺方面 1988 №1197矢島家から薬王寺方面 1988矢島壽男氏撮影 現栄町一丁目矢島家から薬王寺方向を撮った写真です。手前には市民農園が見えます。かつては鬱蒼とした樹木に覆われいた薬王寺でしたが、この頃境内にあった建物は片付けられとともに、境内のケヤキも枝を落とされました。さらにこの後、ケヤキの大木も伐採され、2本のイチョウの木だけが残りました。 薬王寺東側の鉄道脇から南方面を望む 1988 №0843薬王寺東側の鉄道脇から南方面を望む ...
- 2024-12-18日野宿で飼われていた動物たちを紹介します。畑や田んぼを耕す馬や牛、鵜飼いの鵜、狩猟犬、ヤギ、愛犬など、人々とともに生きた動物たちです。
- 2024-12-13昭和30年代に日野橋付近で花火大会が開催されていました。
- 2024-12-13日野宿が出てくる有名な時代小説が2点あります。どちらも江戸時代が舞台で、主人公は渡世人(ばくち打ち)です。そんなお話の冒頭部分に日野宿が出てきます。
- 2024-12-07四谷地区に電灯がついたころの話です。
- 2024-12-07日野宿の方言から「みゃーみやー言葉」について
- 2024-11-27日野市によると「日野市域に伝わる祭ばやしは、東光寺地区に嘉永2年(1849)頃に伝わったものが始まりと考えれています。幕末には一時衰退したものの、明治5年頃に目黒から弥一という師匠を招き、このはやしが以後、日野市域に広がっていったようです。」と紹介されています。
- 2024-11-25日野市が誕生した昭和38年11月、3日から5日にかけて記念式典や様々な祝賀行事が開催されました。その時の様子を写した写真が多数残っています。活気に満ちた日野市誕生当時の様子をご覧ください。
- 2024-11-24日野宿には東西の百段階段(仮称)のほか台地部分と平地を結ぶ階段がいくつかあります。
- 2024-11-23日野宿に生きた、あるいは今も生き抜くケヤキやイチョウなどの名木古木を紹介します。
- 2024-11-14かつて日野宿にあった茅葺き(藁葺き)屋根の家を紹介します。
- 2024-11-03日野宿に残る謂れのある石を紹介します。
- 2024-10-27かつて江戸の米蔵と言われた日野宿ですが、その農業を陰で支えたきた農機具などを紹介します。
- 2024-10-26自治会活動の拠点として長く利用されていた仲町会館、北原自治会館、四谷自治会館などが惜しまれつつ姿を消しました。
- 2024-10-25地元の人が描いた明治から平成の日野宿の絵図や地図を紹介します。
- 2024-10-25仲町の故古谷梅雄さん(通称「中の古谷:なかっぷる」)が作られた「巷談・日野昔かるた」を転載させていただきます。
- 2024-10-23日野宿内の道路上にかつてあったもので、今は姿を消した歩道橋や標識などを紹介します。
- 2024-10-05地元の人が記録した日野宿の資料を紹介します。今回は戦後編です。
- 2024-09-25日野宿で大正、昭和、平成時代に行われた道路、橋、用水、河川工事など主な工事を写真や映像で紹介します。
- 2024-09-12日野宿と俳句にまつわる話を紹介します。
- 2024-09-03日野宿に残る井戸ポンプ、井戸掘り、水道などについて紹介します。
- 2024-08-23日野宿(一部枝郷を含む)で地元の人々に愛されてきたお店のなかから、今は姿を消した懐かしいお店を写真をもとに紹介します。
- 2024-07-19日野宿内にある神社を紹介します。
- 2024-07-19日野宿内に残る蔵のほか、失われた蔵も紹介します。
- 2024-07-16日野宿の下河原、横町、北原、谷戸に残る講中の鉦(かね)を紹介します。
- 2024-07-08日野宿にも日清、日露、第二世界大戦と度重なる戦争に翻弄された市井の人々に引き継がれる戦争の記憶があります。
- 2024-07-07宝泉寺、大昌寺、欣浄寺、普門寺、成就院、薬王寺など、日野宿内のお寺を紹介します。
- 2024-07-07日野宿発見隊では平成21年(2009)から日野宿で受け継がれている屋号のなかから、了解を得られたお宅の屋号看板を新たなデザインで製作し日野宿内に展示しています。
- 2024-07-07日野宿に残る古い道標を紹介します。
- 2024-07-07屋号看板の製作には至りませんでしたが、日野宿にはほかにもたくさんの屋号が残っています。
- 2024-07-05日野宿で長年行われてきた冠婚葬祭の様子を紹介します。
- 2024-07-05日野宿内にかつてあった中央線の2つの踏切を紹介します。ひとつは大正時代に、もうひとつは昭和時代に廃止になりました。
- 2024-07-01義盛はとうもろこし畑に逃げ込んだため、足をとられて倒れたところを敵に殺されてしまったのでした。生き残った和田一族の人たちは義盛の死を悼み、それからはとうもろこしをいっさい食べないということです。
- 2024-07-01北原の松本保家の新築工事の「たてまい」までの様子を撮った写真です。
- 2024-06-27日野宿の戦前・戦後の巡査駐在所や警察署についてのお話です。
- 2024-06-21日野宿内に栄えた匠の技をもつお店を紹介します。
- 2024-06-18日野宿の青少年が各種運動大会など活用した記録です。
- 2024-06-18現在の矢の山公園付近に戦前は某財閥所有、戦後は進駐軍将校用の別荘がありました。
- 2024-06-18火事/火災の記憶を伝えるために、日頃からの防火の取り組みや火災発生時に活躍する消防団などを紹介します。
- 2024-06-16加組には昭和初めに結成された楽隊があったそうです。
- 2024-06-10「引札」は日野宿に残された美術的にも資料的にも大変面白く興味深い貴重な史料です。
- 2024-06-09日野宿の町場と枝郷の地名とおおよその位置関係を紹介します。「まちかど写真館 in ひの データベース」にも展開できます。
- 2024-05-31卒業生により発掘された日野尋常高等小学校校門礎石を日野図書館前に展示しました。
- 2024-05-29コロナ退散を願って作った牛頭天王の地口行灯。
- 2024-05-29鮎にまつわる話を紹介します。
- 2024-05-27各家で長年大切の受け継がれてきた我が家の自慢のお宝、市井の人々の生活感が満ちあふれる貴重な財産です。
- 2024-05-15欣浄寺は、元和6年(1620)に八王子滝山大善寺の僧・硯伝が草庵を結び、正保元年(1644)に芝増上寺の長老だった超誉が中興開山したと伝わっています。現在は芝増上寺の教区にあって、大本山知恩院の末寺になっています。
- 2024-04-25用水沿いに「まちのお宝発見事業 東光寺大根、ここにあり」の看板。12月に入ると、その後のビニールハウスに短冊状に「東光寺大根」が干されます。そばを通りかかるだけで、ツンとくるようなキュッとくるような独特な香りが漂ってきます。
- 2024-04-25地蔵堂の隣、一段高くなった所に飯綱(いずな)権現社が祀られています。