渡船場道
甲州街道が貞享元年(1684)に日野の渡しを通る道筋に変更された後、日野の渡しで多摩川を渡った旅人は現在の「新奥多摩街道入口交差点」まで南へと進み、そこで曲がり、西へ向い日野宿に入りました。
日野の渡しから「新奥多摩街道入口交差点」までは渡船場道とも呼ばれていました。現在立日橋へ行く道です。
「新奥多摩街道入口交差点」から立日橋方面を望みます。都道が拡張整備される前までの道幅は車がすれ違えるかどうか、現在の約三分の一程度でした。
移築保存されている「溝呂木家」
交差点に赤い屋根の蔵があります。この隣に都市計画道路建設のためになくなってしまいましたが、昭和60年(1985)ごろまで茅葺き屋根の民家がありました。
明治26年(1893)、日野宿は大火にみまわれ、ここに住居を構えていた「溝呂木家」は家を焼失してしまいました。そこで八王子の追分にあった江戸後期に建てられた塩野家の建物を買い取り、部材を転用して家を建てたのです。塩野家は千人同心組頭の子孫でした。
現在、その家が小金井公園内にある江戸東京たてもの園に復元保存されています。
日野では農家風に改築されていましたが、現在では元の武家の格式を持った姿で復元されています。
福地蔵(東の地蔵)
新奥多摩街道入口の交差点からまもなく、右手に福地蔵(東の地蔵)が立っています。道路の拡張にによって場所は移動されていますが、その姿は昔から変わっていません。
この地蔵は日野宿の東の端に立てられていることから東の地蔵とも呼ばれていました。
ここから宝泉寺先にある坂下地蔵(西の地蔵)までが日野宿でした。
この付近には西明寺という寺がありましたが、明治初期に廃寺になってしまい、その堂宇は普門寺へ移築されて観音堂になっています。観音堂は日野市有形文化財に指定されています。
また、明治22年からわずか1年あまりではありましたが、日野の有力者たちによって設立された「日野煉瓦工場」がこの一帯で操業しており、そのレンガは甲武鉄道(現JR中央線)建設に使われています。
追記 福地蔵(下ノ地蔵)-安置場所6度の変遷
この福地蔵について、下河原在住の鈴木邦夫さんの調査によると、「下宿下組講中では、このお地蔵さんをリヤカーや一輪車に乗せて、時には背負い、各家々に運び、座敷に置いてお念佛をやっていた。下河原の観音堂の様に、集まる場所が無かったからであろうか。<中略> 下宿下組のお念佛は、平成2年(1990)頃まで続いていた」そうです。
また、鈴木さんは福地蔵の安置場所が6度変わっているといいます。当初は「寛政12年(1800)の『甲州道中分間延絵図』に、下ノ宿尻に万願寺の渡しへの旧甲州道中と『表ノ川』の間に『地蔵堂』と見える」所にあったが、その後、日野宿の大火や道路工事などにより何回か場所を変えた後、現在の中嶋家墓所脇に落ち着いたといいます。
鈴木さんはさらに補足として、「日野の観光雑誌や市史などに、正式名称的に『東の地蔵』とある。しかし『西の地蔵』(坂下地蔵)と共に、地元ではその様には呼ばない。下宿の剛ちゃん先生(古谷剛次郎さん)が、講演でその様に説明し、それをK氏が本にした事によると。」と述べています。
旧甲州街道の痕跡
道は拡張され、あたりの風景を見ても田んぼの中を通っていた面影を見ることはできません。ですが、何ヶ所か痕跡をたどることはできます。
そのひとつは用水路です。日野一中脇を流れて来る日野用水下堰とその分水がスポーツ森公園の手前で道を横切っています。この流れはそのままです。そして、ふたつ目は、道路の歩道です。スポーツの森公園交差点から少し南側、公園とは反対側歩道の幅が不自然に広い所があります。
渡船場道は大正15年(1926)8月25日に日野橋が開通するとともに、それまで国道20号だったものが、都道256号に変更されています。新しい都道はその上をなぞるように建設されたため、多少曲がりくねっていた部分が道路用地として残され、そこが歩道に利用されているのです。
この部分に面した家には、風よけの屋敷林だった2本の樫が残されています。また、廃路となった用水路跡も見られます。