日野宿のお地蔵さま

日野宿内で今もあつく信心されている主なお地蔵さま(地蔵菩薩)を紹介します。
順次情報を追加予定です。

普門寺のお地蔵さま 延宝2(1674)年造立

写真準備中

普門寺のお地蔵さま
(日野本町7-5)
本堂裏左側、7基並立の右端、市内で一番古い地蔵、普門寺の石仏は摩滅厳しい。(『日野の石仏散歩』より)
「逆修(生前供養として造立されたもの)の地蔵」(『日野市史民俗編』より)

坂下地蔵 正徳3(1713)年造立

坂下地蔵
 井上博司氏撮影
坂下地蔵は左の坂下地蔵堂に安置されている
井上博司氏撮影
坂下地蔵(「ひのっ子日野宿発見」のサイトにジャンプ)       
中央線日野駅のホームの南の端近くに、旧甲州街道の坂の途中に坂下地蔵とよばれる地蔵堂がある。ここは甲州街道でも難所の一つといわれた坂道で、昔はこの坂道を越えて、大和田に出て八王子方面へ行った。この坂を越えて大和田までの道は、昔は一面のすすき原で、家はなく、全く心細い道中だった。時々追はぎも出たということで、このお地蔵さんは、ここを通る人たちの守り本尊でした。
 このお地蔵さんは日野の宿の人々にとっても、上のお地蔵さまとして親しまれ、日野の渡に近い下のお地蔵さまと共に日野宿の人々にとっても大切な守り本尊でした。
 この坂下地蔵は、青銅で出来た立派な仏像で、鋳造師は江戸神田鍛冶町一丁目の田川民部藤原見蔵という人で、甲州武田の家臣の出で、日野の大昌寺の釣鐘や内陣の燈籠を作ったといわれている。この鋳物師の鋳造場跡といわれるのが、市内の谷戸にあり、そこからたくさんの金くそ(カジヤ跡から出る鋳物の残滓)がでた由。この鋳造師の弟は土着して谷姓を名のり、その子孫は今も続いているという。この地蔵堂は昔はケヤキ造りの立派なものだったが、中央線の汽車の火の子が萱葺屋根に飛火して焼けてしまったので、お地蔵さんは一時は道の反対側にある宝泉寺に預けられたが、四五年の後に新築されたのが現在の地蔵堂である。ここでは毎月二十四日に念仏講の人々が寄って念仏を今でも唱えている。
 この坂下地蔵堂前に六体の石のお地蔵さまが並んでいる。
(田中紀子氏採録 「日野の歴史と文化(18)」より)       
お堂の外にある等身大の六地蔵左側が地蔵菩薩(享保5<1720>年)右側が阿弥陀如来像(元文2<1737>年)(加地勝記)

宝泉寺のお地蔵さま

安永8年(1779)を筆頭に明治36年(1903)や昭和60年(1985)の六地蔵をはじめ、同時期造立のお地蔵さまがあります。(加地勝記)

北の左側
2024-05-24
北の右側
2024-05-24

2024-05-24

トンガラシ地蔵 台座に明和3(1766)年の銘

トンガラシ地蔵 井上博司氏撮影
新しくなったトンガラシ地蔵堂
2012-10-20
2024-05-11
入野祐子氏撮影
2024-05-11
入野祐子氏撮影
トンガラシ地蔵(「ひのっ子日野宿発見」のサイトにジャンプ)
欣浄寺境内
         
 日野市日野本町四丁目(昔は北原といった)にあるお地蔵さまは、トンガラシ地蔵とよばれ、眼病をなおしてくれるお地蔵さまとして人々から信仰されてきた。赤い頭巾に緋の衣をまとったお地蔵さまは、眼をつむっている。
 昔はイロリで火を燃して、暖房や、煮たきをしていたので、煙が室内にたちこめて、眼を病むことが多かった。昭和13(1938)年に日野へ嫁いで来た筆者でさえも、その頃の農村のほとんどイロリであったため、眼をやられた経験があるが、農家の主婦の中には目ヤニが出たり、赤い目をした人が多かった位だから、トンガラシ地蔵への願掛けをして癒してもらいたい人がたくさんいた。
 トンガラシ地蔵のいわれはわからないが、秋になると、お地蔵さまの前にはたくさんの赤いトンガラシが供えられたという。今では供える人もまれになったのは、ガスの時代になって眼を病む人が減ったためだろう。
 トンガラシの思い出として、私の忘れられない子守歌が一つある。
 
  とーん、とーん、とんがらし。
  ひりりとからいは山椒の粉
  ごまの粉、けしの粉、くるみの粉
  アサの実、アオノリ、陳皮の粉
  七色合せて三文じゃ。
  お安いものだに買わしやんせ。
   (陳皮はみかんの皮のこと)
 
 私の母がよく歌った子守唄である。七色とうがらしの売りもの歌であったのかも知れない。
(田中紀子氏採録  「日野の歴史と文化(17)」より)
松本保著
『北原村ととんがらし地蔵』

平成29(2017)年2月、日野市内の北原地区に残るとんがらし地蔵尊の講元、松本保さんによって『とんがらし地蔵建立二百五十年記念 北原ととんがらし地蔵』が刊行されました。北原地区は現在の日野本町四丁目の欣浄寺付近で、地蔵尊堂は東南の角に建っています。昨年建立から250年を迎えたとんがらし地蔵尊の念仏講は残念ながら解散されましたが、欣浄寺によってこれまで通り手厚く祀られています。本書は地蔵尊の由来と念仏講、北原村のあゆみなど、詳細にまとめられています。地元の人によるこうした資料は実に貴重で、実に魅力的な内容です。

やんめ地蔵 台座 に昭和7(1932) 年の銘

やんめ地蔵菩薩
2006-11-11
加地勝氏撮影
やんめ地蔵菩薩
2006-11-11
加地勝氏撮影
やんめ地蔵
(下町 中村家敷地内) 
           
江戸時代の末に、日野の甲州街道から、昔の川崎街道へ入る辻にお地蔵さんが建っていました。人々はこのお地蔵さんをヤンメ地蔵とよんで眼病をなおして下さるお地蔵さんとして信仰が厚かった。このお地蔵さんの由来について次のような話がある。
 昔々、ある夏の夕暮時、こうもりの飛び交う中を子供たちはそれぞれ我が家へ帰っていった。ところが子供の一人が突然見えなくなった。親をはじめ近所の人々がいくらさがしても見当らないので、神かくしにあったのだろうということで、なかばあきらめていた。そしてこの事件もいつとはなしに忘れられて50年の歳月がたった。
 ある日一人の坊さんがこの地を訪ねて来て、「今から50年も前のことだが、一人の子供が行方知れずになったことを知っている方はありませんか。その子供の家はどこでしょうか。知っていたら教えてください」と坊さんは人々に訴えました。やがて思い出す人や、親から聞いていたという人もあって、その生まれた家が中村という家であることも分った。坊さんは「実は私は行方不明になったその子です。長い事高野山で修行をして僧侶になりましたが、うろ覚えの生れ故郷をさがしたいと思い旅をして来ました。この辺の様子も昔見たことのあるような気がします」といって生家が見つかったことをよろこんだ。
 それから辻の近くにある山田屋という宿に泊ってしばらく居たが、当時この辺の人々が「はやり目」を病んで困っている話をきくとさっそく願がけをして一体のお地蔵さまを彫り上げたのを辻へお祀りしたので、そのはやり目も癒ったという。坊さんはいずれともなく立去った。それから人々はこのお地蔵さんをヤンメ地蔵とよぶようになった。
 中村家ではその後、このお地蔵さまを自宅の庭先に移し、更にもう一体のお地蔵さんを祀ってこの坊さんの冥福を祈ったという。
(田中紀子氏採録 「日野の歴史と文化(18)」より)

上佐藤家の飛地蔵 文政3(1820)年)造立

上佐藤家のお地蔵さま
2009-03-28
井上博司氏撮影
上佐藤家の飛地蔵
(仲町 上佐藤家敷地内)         
天保4年(1833)12月のこと、季節はずれの大風雨が吹き荒れました。風邪もようやくおさまったあくる朝、上佐藤家の者が外に出て見ると、屋敷の北東隅に、高さ60センチメートルほどの石の地蔵さんが黙然と座っていました。不思議に思って、どこの地蔵さんかしらと尋ね歩いたところ、小宮村(八王子市小宮町)のうちにあったことがわかりました。そこで翌年の正月20日にもとのところへお返ししました。ところが翌21日の朝、今度は西の隅にある古木の上に座っているではありませんか。「ここがそれほど居心地がよいなら」と屋敷うちに愛宕大権現様としておまつりしました。今でも上佐藤家の裏庭の小さな社の中に、このお地蔵さんはにこにこと立っています。(「日野市史 民俗編」より)

三浦家のお地蔵さま 昭和8(1933)年造立

三浦清司家のお地蔵さま
2009-03-28
井上博司氏撮影
三浦家のお地蔵さま
(撮影時:仲町 三浦家の敷地内)
昭和八(1933)年十月の刻印が背中にある丸彫りの地蔵。改築前には、街道沿いに置かれていたとのこと。現在は大昌寺の墓地にある。(加地勝記)

伊羅胡家のお地蔵さま 大正13(1924)年造立

伊羅胡家のお地蔵さま
2009-03-28
井上博司氏撮影
2009-03-28
井上博司氏撮影
伊羅胡家のお地蔵さま
(伊羅胡家の敷地内)    
右面に「大正十三年10月吉日」左面「病目地蔵尊」の刻字・背面に「発起人古谷ちか七十八才 伊羅胡みつ七十六才」と刻まれている。伊羅胡家は、現在地への移転前は甲州街道近くにあった。みつさんは先々代の当主夫人とのこと。(加地勝記)

坂田家のお地蔵さま 「昭和三十九年五月二十三日下町上組講中より拝受 坂田家」の筆書きあり

今は亡き「かじぞうさん」こと加地勝さんに持たれた坂田家のお地蔵さま
2009-03-28
井上博司氏撮影
2009-03-08
井上博司氏撮影
坂田家のお地蔵さま(坂田家の敷地内)背中に「昭和三十九年五月二十三日下町上組講中より拝受 坂田家」の筆書きがある。高さ22㎝の丸彫り地蔵。(加地勝記)                 

福地蔵/東の地蔵 台座に明治28(1895)年の銘

福地蔵(東の地蔵)
井上博司氏撮影
福地蔵/東の地蔵
(下町下河原中島家墓所脇)
台座には明治28(1895)年の銘あり。西明寺跡地蔵堂内に安置されている。日野宿の東の入口付近にあったことから東の地蔵とも呼ばれる。(『日野の石仏散歩』より)

四ツ谷のお地蔵さま 台座に享保16(1731)年の銘

四ツ谷のお地蔵さま
右側のお地蔵さまの台座に享保16(1731)年の銘
左側のお地蔵さまは造立年代不明
2024-05-10
四ツ谷の地蔵堂
左橋は庚申塔
その右側は青面金剛(しょうめんこんごう)
2024-05-10
昭和初期の地蔵堂
側を流れる用水で水荒いをする女性の姿
天野トメ氏所蔵
四ツ谷のお地蔵さま
(栄町の天野眼科の西側)
右側のお地蔵さんに享保16(1731)年の銘あり。
左側のお地蔵さんは造立年代不明。
庚申塔は天保15(1844)年に造立とされる。
(『日野の石仏散歩』より)

栄町三丁目のお地蔵さま 台座に享保7(1722)年の銘

栄町3丁目のお地蔵さま
2024-05-16
2024-05-16
栄町三丁目のお地蔵さま
(栄町3-14-1 多摩川土手を背にした小堂内)
台座に享保7(1722)年 日野四谷村中・日野新田村中の銘(『日野の石仏散歩』より)

日野宿健康長寿地蔵尊 通称「日野宿けんころ地蔵」 平成23(2011)年12月11日造立

けんころ地蔵
けんころ地蔵開眼式 2011-12-11
2024-05-14
2024-05-14
日野宿健康長寿地蔵尊
通称「日野宿けんころ地蔵」
(普門寺境内)        
地元の商店会の会員を中心に結成された日野宿健康長寿地蔵尊建立実行委員会により、「急激な高齢化と、核家族化により、一人住まいの老人や、老夫婦だけの暮らしが増えています。いつまでも、元気に長生きをしたい。万一の時には、長患いで家族や周りの方々に迷惑をかけないで済むような大往生をしたい。が誰しもの願いです。日野市や多摩地区近隣のお年寄りは今後もどんどん増えてくるでしょう。その方々にとって、心の安らぎと、安心してくつろげる場所はできないものか」との考えのもとに、平成23(2011)年12月11日に「日野宿健康長寿地蔵尊」、通称「日野宿けんころ地蔵」を普門寺山門付近に造立された。開眼大導師に高幡山金剛寺貫主川澄祐勝大僧正、開眼導師に普門寺川澄祐英住職をお迎えし、盛大に開眼式を執り行った。折しも同年3月11日に東日本大震災という未曾有の災害が発生し多くの人命を失った。開眼式にはその犠牲者の追悼も同時に祈願した。
地域を盛り上げようと商店会の滝本さんを中心に10年近く月の第3週土曜日に縁日も行われていた時期もあった。なお、川澄祐勝大僧正もすでに旅立たれ、地蔵堂はご子息の川澄祐英住職に託される運びとなり、当初の場所から位置を変え新しくできた「宿り日堂」の脇に西側向きに建つ。

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