佐藤彦五郎

佐藤彦五郎(佐藤彦五郎新選組資料館提供)
佐藤彦五郎
佐藤彦五郎新選組資料館所蔵

佐藤彦五郎は文政10年(1927)9月25日、日野宿の名主下佐藤家の半次郎とまさの長男として誕生しました。

彦五郎の幼名を庫太(くらた)といい、4歳で父と死別しています。11歳で祖父10代彦右衛門から日野本郷名主を引き継ぎ、弘化2年(1845)に石田村の土方のぶ(婚姻前はとく)と結婚しました。

のぶは土方歳三の実姉で、幼くして両親を亡くした歳三にとっては親代わりの信頼できる存在だったようです。その後の彦五郎と歳三の関係の深さの背景に姉のぶの存在が大きかったと想像できます。

彦五郎は幕末期の混乱期にあって、嘉永3年(1850)に天然理心流3代目宗家近藤周助の門人となり本陣内に出稽古用道場を開きます。地元出身の井上源三郎がすでに近藤門下であったこともあり、源三郎の兄で千人同心の松五郎の勧めもあったようです。

道場には、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助等が指導に訪れます。この出会いが機縁となり後に京都に赴き新選組として活躍する近藤勇等の物心両面の支援に繋がります。

これと前後して、安政2年(1855)9月には町田の小野路村組合の寄場名主小島鹿之助と近藤勇が義兄弟の盃を交わします。同様に彦五郎も近藤勇と義兄弟の盃を交わしています。

文久3年(1863)近藤勇等近藤一門の連中が京都治安を目的に幕府によって募集された浪士組に参加して上洛します。その後、独自に京都に残った近藤勇や土方歳三等が新選組を組織し、京都守護職松平容保の下、不定浪士の暗躍する京都の治安に勤めます。

その間、近藤等から彦五郎のもとに京都の情勢が書状をもって逐一伝えられています。日野宿の指導者たちも時局を憂える思いは共有されていたのでした。送られてきた書状は土方たちが下賜された刀などとともに現在も佐藤彦五郎新選組資料館や土方歳三資料館などで保存・公開されています。

文久3年(1863)には日野宿においても、日野宿組合を中心に農兵隊が編成されました。慶応2年(1866)に起きた武州一揆で押し寄せた暴徒を築地河原で撃退し、また八王子宿の壷伊勢屋では薩摩浪士の捕縛で成果をあげています。

しかし時代は大きな転換期を迎えていました。幕府の大政奉還後、慶応4年(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いに敗れた近藤勇等新選組の面々は海路江戸に戻らざるを得ませんでした。

その後、甲陽鎮撫隊を組織し甲州に赴く近藤・土方等に、彦五郎も農兵隊の春日隊を組織し帯同します。

しかし板垣退助率いる官軍との甲州勝沼の戦いに敗れた彦五郎でしたが日野にも戻るも、官軍の追跡を交わすため妻ののぶ等と五日市在大久野村の羽生家などに潜伏します。

その後、彦五郎自身の工作や日野宿の顔役等による嘆願などにより、明治2年(1869)漸く大本営詰め西郷からの達しを得て漸く日野宿に戻ることができたのでした。

彦五郎は彦右衛門と改名した後、明治5年(1872)に俊正と改名します。そして、明治11年(1878)には初代の南多摩郡長に就任しています。

そうしたなか、俊正や小島鹿之助等は最後まで義を貫いた近藤勇や土方歳三等の名誉の回復を求め奔走しますが、なかなか新政府の許可が得られず、紆余曲折の後、明治21年(1888)に漸く「両雄殉節の碑」を高幡金剛寺の不動堂近くに建立することできたのでした。

俊正は春日庵盛車(かすがあんせいしゃ)という雅号で俳諧を嗜みました。また、土方歳三も豊玉(ほうぎょく)という雅号で発句しています。俊正が義兄弟 近藤勇と義弟 土方歳三の死を悼み読んだ句が残っています。

  勇(の死)を悼みて 「鬼百合や花なき夏を散りいそく」
  歳三へ(歳三の死を悼みて) 「待つ甲斐もなくて消えけり梅雨の月」

佐藤俊正は明治35年(1902)9月17日に死去します。享年76歳でした。墓所は三鷲山鶴樹院大昌寺です。

なお、平成16年(2005)4月25日(日)、日野宿本陣の南側、日野用水に面したところに佐藤彦五郎新選組資料館を開設し、子孫の佐藤福子館長のもと、新選組史料等の保存と公開に務められています。

参考

  • 『聞き書き新選組』 佐藤昱/著 新人物往来社 1972年9月
  • 『佐藤彦五郎日記 2 附 新選組関係史料』(日野宿叢書 第五冊) 日野市 2005年3月

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