日盛倶楽部の話

日野宿に、大正(1912年-1926年)末期から昭和元年(1926)頃にかけて、金子橋という地区のちょうど馬場商会から南へ20~30mいったあたりに、「日盛俱楽部(にっせいくらぶ)」という活劇や無声映画を見せる娯楽施設があったそうです。生活も厳しい時代にひとときの娯楽を提供してくれる貴重な存在だったようです。

この「日盛倶楽部」について『聞き書き日野の昭和史を綴る』(日野の昭和史を綴る会編 日野市中央公民館)の101頁から102頁に、地図付きで、次のような証言が掲載されています。

「一階平屋建てで、間口が4~5間、奥行が8~9間ほどで4枚戸、中へ入ると土間で左側に下足棚があり、中央に2尺巾の土間の通路が舞台の前まであったそうです。窓は左右に高窓となっていた。左側の窓口で入場料(2銭~10銭)を払うと、木の札を2枚渡され1枚を自分で持ち、1枚を下足入れのところにかけた。開演日が近づくとチンドン屋が回り、入口には縦長の旗が並んでいた。上演は映画と活劇で、多い時はいっぱいとなり、百人以上入った時もあったようだ。また、中では物売りの人が平箱に飴、せんべいを持って回っていた。その後、入口南側に売店が開かれていたそうです。開園日は月に1週間くらいが多い方で、だんだん少なくなり昭和10年頃閉館となった。その後アパートに改造され、6世帯ほどが住んでいて、昭和30年(1955)頃まで使われていた。昭和46年(1971)、区画整理により整地され、現在のような市役所に通る広い道路となった。」

日盛倶楽部付近略図
『聞き書き日野の昭和史を綴る』(日野の昭和史を綴る会編 日野市中央公民館)より転載

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