日野用水に架かっていた橋
日野用水にかつて架かっていた旧橋を紹介します。随時更新中です。
大心橋/泰心坊橋
『日野の用水 日野用水開削450周年記念誌』の「日野宿の橋」(70頁)の項に「日野第一小学校の近くにあった大心橋」と紹介されている大心橋の架け替えに関わる古文書が仲町自治会に引き継がれていました。
下の写真は嘉永6年(1853)3月の大昌寺前石橋寄進連盟書と安政2年(1855)8月の寄進者名と金額控です。
猪鼻洋助さんによると、この大心橋は裏の川(宿裏堀)が仲井堀に分かれる付近に架かっていた橋ではないか。名称も写真の大昌寺前石橋寄進連盟の後に出ている「泰心坊橋」のことで、郷土史家の故谷春雄さんも「大心橋」という言い方をしていたとのことです。
『日野の歴史と文化ー日野の古道特集号ー』13号(日野史談会 1979年4月30日)に河野正夫さんが「道路の今昔」と題して論考を寄せています。その中に、「神奈川往来」という項があり、次のように述べています。
「日野から高幡橋を通り川崎街道に通ずる道を明治22年(1889)頃まで神奈川往来といった。一般には高幡不動道といった。(明治22年、日野宿地誌)、甲州街道から青林堂わき(現在、昭和横丁〈現川崎街道〉入口にある高幡不動道標は青林堂わきにあった)から大昌寺大門通りに入り、大門橋を東折し、現一小北側にあった大心橋(泰心坊橋とも云ったという)を通り、現在の高幡道に合流した。以南高幡橋まで仲井、宮、上田を通り、かなり曲がった所もあったが、昭和11年(1936)頃拡幅し直線形に整備した。」
これで、大心橋と泰心坊橋が同一の橋だったということがわかりました。
さらに、この大心橋について、鈴木邦夫さんから次のような新たな情報をいただきました。上記の記述をいっそう裏付ける内容でした。
『日野の歴史と文化』36号(日野史談会 1992年10月)に郷土史家の谷春雄さんが、「古道を歩く 川崎街道」と題して論考を寄せていました。その中で「川崎街道は大門通り約百五十米を抜け『大門橋』へ出る、ここには明治三十年頃かけられた石橋があったが現在橋とは名ばかりの道路の一部になっている。ここから街道は日野用水に添い約二百米ほど東へ進み右折する手前五十ほどに『大心橋』があった。仲井堀の取入口に架けられた橋で、古い記録には『泰心坊橋』とも記されている、泰心坊とは橋の近くに住んだ修験者の名かとも想像されるが史料が無く不明である。」と記しています。
大門橋
日野用水上堰の通称「裏の川」(宿裏堀)に架かっていた橋です。手前欄干には中央に「大門橋」の銘がかすかに見えます。この反対(東)側に「明治四十ニ年十月成」の銘が彫られていたました。
昭和54年(1979)頃に裏の川(日野用水)が暗渠となり、その際、取り外された大門橋の御影石は市役所の資材置き場に置かれていた。日野図書館前の「甲州道中日野宿問屋場・高札場跡」の石碑はこの橋の御影石を使った。揮毫は北原の佐藤信雄氏。佐藤氏は元八王子信用金庫(現多摩信用金庫)の理事長だった人で、北原自治会会館の表札も佐藤氏による。<猪鼻洋助氏談>
金子橋板橋
金子橋は現在の馬場商会の前付近にあった橋です。『甲州道中分間延絵図』(文化3年<1806>)にも描かれている由緒ある橋です。当時は木橋だったようです。
昭和7年(1932)から8年にかけて行われた甲州街道の拡幅工事の際に、この金子橋の橋桁は取り外されてしまいました。
詳細は「ひのっ子日野宿発見 18.金子橋」の項をご覧ください。
『日野の用水 日野用水開削450周年記念誌』の「日野宿の橋」(70頁)に次のような記事があります。
「八坂神社の近くの金子橋、JR日野駅に近い中之橋、宝泉寺の横にある宝泉寺橋です。長さはちがっていましたが、幅は3m70㎝ぐらいの木の橋でした。享保3年(1718)にかけ替えた時は、井の頭池の近くの幕府の林(御林)から松の木60本を切り、それを運んで使いました。大工のお金や釘代は出してくましたが、材木を運ぶお金は日野宿が出したようです。その後、材木を運ぶのが大変なので、百草村の御林の松の木を使っています。7年ごとに修理をしたり、かけ替えたりしました。」
仲之橋板橋
『甲州道中分間延絵図』に描かれている仲之橋は日野駅東側の通称「裏の川」(宿裏堀)に架かる橋と考えられます。
下の写真の旧甲州街道に架かる橋が仲之橋の名残の橋と思われます。右手が日野駅方面です。
宝泉寺前板橋
『甲州道中分間延絵図』に描かれている宝泉寺前橋は山下堀の流れに架かる橋です。
横町の河野家は江戸時代の八王子同心組頭の末裔です。屋号は「橋場」。河野家の南側を流れる山下堀に架かる橋の側に位置したことからそう呼ばれたといいます。
甲州街道に面した河野家の左脇に山下堀が流れています。その流れに架かっている橋の欄干が写っています。これが宝泉寺橋の名残と考えられます。現在は暗渠になっていますので見ることはできませんが、昭和40年代までは下の写真のように開渠となっていました。
東光寺大橋
日野台地から東光寺大坂を下りきったところで、東光寺道と日野用水上堰の流れに交差しますが、そこに架かっていたのがこの東光寺大橋です。現在では東光寺大橋は姿を消し、流れは交差点の下を抜けて日野駅方面への本流とパイパス方面の二手に流れていきます。
平成20年代中ごろバイパス建設にあたり、この交差点付近も整備され、弘化 3 年(1846 年)に建立されたこの橋の謂れを刻んだ「石橋碑」は写真のように、大正時代に建てられた「大坂碑」とともに、交差点の南側隅に移されています。
「大橋碑」には、天明6年(1786)に土橋から板橋に架け替えられ、その後、文化5年(1808)には石橋に替えられたが、それも天保年間(1830~40)に崩落したため、村民が協力して弘化3年(1846)に伊豆石を用いて架橋したことなど、橋の変遷が記されています。
また、「大坂碑」には八王子に向けて日野台地に登る坂道が険しかったため、崖を開削し、排水溝を設けたことなどが記されています。
東光寺大橋の記念碑
『日野の用水 日野用水開削450周年記念誌』の「東光寺の橋と記念碑」(67頁)の項で、この東光寺大橋碑の内容について掲載しています。
「東光寺を流れる上堰用水には、土橋をかけて通行してきた。この橋の近くに植えた4本のケヤキが、大きくなったので天明6年(1786)1本を切り、それを使って土橋から板橋にかえた。しかし、村の老人がじょうぶな石橋にしてほしいというので、残りの3本のケヤキを売った。たりない分は近くの村からも寄付してもらって、文化5年(1808)石橋にした。しかし、材料が悪く、30年以上たった天保年間(1830~1843)に、くずれ落ちてしまった。そこで、弘化3年(1846)、村人は成就院のお坊さんと協力して、伊豆(今の静岡県)からよい石を買って橋をかけた。今度は長く持ちそうで、農民が田や畑に行くのに便利に使っている」
下宿の宿入口から日野の渡しまでに架かる橋
『甲州道中分間延絵図』に描かれている下宿の日野宿入口から日野の渡しまでには、次のような橋が架かっていました。解説編をみると、いずれも巾四尺前後の橋と記されています。
以下、下宿下河原の歴史を現在まとめられている鈴木邦夫さんによる調査結果から引用させていただきます。
橋の名称は橋を架けたと思われる百姓や、用水を掘ったと思われる百姓の名前や地名から名付けられたようです。
①長七前石橋
「長七」は角屋(高木家)。
②西明寺脇石橋
③前川久保石橋
昭和10年代の写真に日野用水下堰に架かる川久保橋が写っています。。
№0963の写真では写真奥に見えるのが川久保橋です。また、№0547の写真は右手に見える渡船場道(現在の立日橋に通じる道)の右手前が川久保橋です。
④清蔵堀石橋
⑤文右衛門堀石橋
「文衛門」は東屋(中村家)。
⑥六兵衛堀石橋
こちらは現在調査中とのこと。
⑦仲堀石橋
⑧向川久保石橋
⑨同所石橋
⑩清七堀石橋
「清七」は溝呂木家。
⑪太助堀石橋
「太助」は下ノふるや(古谷家)
⑫政右衛門堀石橋
「政右衛門」は中村家。
⑬常安寺板橋
参考
鈴木邦夫さんが調査にあたった史料として次のようなものをあげています。
- 元禄13年(1700)の「差出帳」
- 正徳6年(1716)の「高反別明細帳」
- 天保14年(1843)の「甲州道中宿村大概帳ー日野宿ー」
- 明治13年(1880)の「皇国地誌」
- 明治22年(1889)の「日野宿地誌」
- 明治初期の「字限図」
- 平成元年(1989)『川のいわれ』(日野市)