東光寺薬師堂
たしかなことは明らかではありませんが、東光寺薬師堂は 平安時代の中期、日奉宗頼の孫の西大夫宗忠が谷地川と多摩川の合流点に近い高台の西北隅、遠望のきく東光寺台地に居館を築き、その鬼門よけのために、東光寺と薬師堂を建てたといわれています。
日奉氏の祖・日奉宗頼は、平安時代の中ごろ、武蔵国の勅使 牧(ちょくしまき)であった石川牧の別当として赴任し、そのままこの地に住みつき、その子孫が多摩川西岸一帯に勢力を得て、武士団西党を結成したといわれています。
日奉氏没落の後に荒廃してしまいましたが、天正8年(1580)に再建されたと伝えられています。
嘉永2年(1849)に焼失し、嘉永6年に再建されたのが現在の堂宇です。
現在、薬師堂は成就院の境内にありますが、もともとは西方、300m程の東光寺大坂下の辻にありました。その跡地には碑が立てられています。昭和46年(1971)、都市計画により現在の場所に移転されています。その際、茅葺きから銅板葺きに改修されています。
薬師堂と本尊木造薬師如来坐像は共に日野市指定有形文化財に指定されています。
毎年10月中旬には薬師祭りが行わます。護摩が焚かれ、一年の家内安全を託した護摩札が授けられています。
東光寺薬師堂は「安産薬師」とも呼ばれています。それは東光寺村内のある妊婦の夢枕に「枝栗を供えよ。しからば出産は易からん」と、本尊薬師如来のお告げがあったので、この薬師さまに枝栗をお供えしたところはたしてその通り安産だったそうです。
以来、村々の妊婦たちも安産を願ってお参りするようになり、「安産薬師」と呼ばれ親しまれるようになりました。今でも安産を祈願する人ばかりでなく平癒の祈願の参詣者がたくさん訪れています。
東光寺薬師堂今昔
東光寺薬師堂が昭和46年(1971)に都市計画により成就院に移転される前、東光寺大坂下の辻にあったころの茅葺き時代の写真です。
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