日野宿に残る古い道標

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☞ 日野宿の道標☞ 復元された日野宿道標☞ 高幡山不動尊道の道標/石碑☞ 東京府境界標
☞ 万願寺道標石☞ 七ツ塚公園内の道標石☞ 高幡橋近くでみつけた道標☞ 万願寺の一里塚
☞ 仲町のある住所表記☞ 郵政省の境界石

日野宿の道標

岡山県総社市生まれの堀和平が明治17年(1884)に描いたという甲州街道日野宿。絵は色紙よりやや小さめで水彩画。絵の裏側には「甲州街道武蔵日野駅実景、明治十七年九月二日、堀和平写」と書かれています。中央に道標が立っています。絵は、子孫の方から日野市に寄贈され、現在、日野市長室に飾られているとのことです。

東京新聞、昭和62年(1987)5月22日の記事によると、郷土史家らによれば「いい伝えや史料などからみて、かわら屋根や板屋根が実際より多く建物の配置がやや違う点もある。簡単なスケッチをもとに後で仕上げたため、創作部分が多いのでは」と分析していると報じられていますが、当時の様子を知るうえで大変興味深い作品です。

なお、日野宿交流館2階の展示室に復元された木製の道標が展示されています。

堀和平/画 「甲州街道武蔵日野駅実景、明治十七年九月二日」

復元された日野宿道標

復元された甲州道中日野宿の道標
日野宿交流館展示物
2024-06-05

日野宿の東入口付近にあった道標

日野宿交流館に展示されている日野宿の東入口、現在の新奥多摩街道入口交差点付近にあった道標の欠片です。八王子道と日野渡船場への道が示されています。

日野宿の東口にあった道標の欠片
日野宿交流館展示物
2024-06-05
この辺りに道標があったらしい
高木歯科医院前
2008-03-06

高幡山不動尊道の道標/石碑

現在川崎街道入口、古谷家(屋号は「中の古谷<通称:なかっぷる>」)の角に立つ写真の「高幡山不動尊道」の石碑(明治17年<1884>8月建立)はかつて旧大門通りの入口に立っていました。この石碑は大正13年(1924)から昭和初年にかけて建設された昭和横町(現川崎街道入口付近)ができたとき移設されたといいます。(『私たちの町仲町』より)

なお、昭和23年(1948)頃という異説もあります。

「高幡山不動尊道」の道標
2024-06-05
明治17年(1884)8月建立
2024-06-05

東京府境界標

平成20年(2008)3月6日(木)午後、猪鼻洋助さんと自転車で市内のプチ文化財巡りをしてきました。

日野市上田にある北野神社天満宮の入口付近に埋もれかかっている石標。猪鼻さんによれば、これは東京府時代の土地境を示す基準点のようなものではないかとのこと。

大字の刻印
2008-03-06
東京府の刻印
2008-03-06
東京府の刻印
2008-03-06
2008-03-06

万願寺道標石

平成21年(2009)10月24日(土)、日野宿発見隊隊員5名で万願寺の生沼さん宅を訪ね、万願寺道標石を見せていただきました。

道標が立っていた位置を教えていただいたのち、谷享司さんにより拓本がとられました。

石柱の三面に次のように文字が刻まれていました。

一面「大正十二年十月建立日野町青年」
二面「向テ右宮上田高幡」
三面「向テ右日野八王子」「向テ左田村新井石田

令和6年(2024)にはこの辺りは区画整理事業により一変しています。中央自動車道と平行する立派な一般道が整備され面影を失いました。
2009-10-24
石柱の三面に文字が浮かんできました。
一面「大正十二年十月建立日野町青年」
二面「向テ右宮上田高幡」
三面「向テ右日野八王子」「向テ左田村新井石田」
2009-10-24
二面「向テ右宮上田高幡」
2009-10-24
三面「向テ右日野八王子」「向テ左田村新井石田」
2009-10-24

七ツ塚公園内の道標石

自然石に「右たき山迄一り、左八王子迄一り半あまり」と書かれています。江戸初期のものではないかと思われるものの、年号がないため造立年も元々どこに建っていたのかも不明だそうです。

土地の人たちの記憶では金毘羅宮の傍らにあったとの話もあるものの、かつては東光寺大坂を下った三叉路にあった可能性もあるともいいます。

「右たき山迄一り、左八王子迄一り半あまり」と刻まれた自然石
2024-06-04
道標石解説板
2024-06-04

高幡橋近くでみつけた道標

平成28年(2016)3月26日(土)に開催されたまち歩き会「谷仲山・川辺堀之内方面を訪ねて」(第69弾)の途中、高幡橋北詰近くで見つけた川崎街道を示す手作りの道標です。

現在の川崎街道は大正13年(1924)に直線道路に付け替えられ川崎街道と命名されましたが、地元では最初「新道」と呼んでいたそうです。現在もかつての鎌倉街道の名残の曲がりくねった細い旧道がすぐそばに残っています。

参考:『日野市旧桑田村の地名ー豊田・川辺堀之内・上田・宮・下田・万願寺・新井・石田ー』日野の昭和史を綴る会/編集・発行 2012.4

川崎街道を示す道標
2016-03-26

万願寺の一里塚

写真は岩澤家にあった万願寺の一里塚です。この一里塚は慶長年間(1596~1615 )に甲州街道が整備されたときに造られた一里塚です。街道の両脇に 1 里(約 4km)ごとに設けられた塚で、万願寺一里塚は江戸日本橋から 9 里目にあたります。街道をはさんで ふたつありましたが、北側の ひとつは昭和 43 年(1968)12 月に取り壊されたそうです。

江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから、多摩川の万願寺の渡しを渡り、市内源平島を抜け、この万願寺一里塚を経て日野宿に入りました。その後、貞享年間(1684~1688 )に日野の渡しを通る道筋に改められています。

岩澤家にあったこの一里塚は土地区画整理事業により多摩モノレール通り沿いに復元保存されています。

№1315
万願寺の一里塚 - 岩澤泰宏宅 
岩澤泰宏氏撮影
№1432
万願寺の一里塚 - 岩澤泰宏宅 1977
岩澤泰宏氏撮影
復元された万願寺一里塚
このときはまだ榎の木が細かった
特別に登らせてもらいました
2008-03-29

仲町のある住所表記

現在の日野本町4丁目のあるお宅の住所表記です。昭和38年(1963)に日野市になる前のまだ日野町の時代、「南多摩郡日野町仲町2605」の表記。現在はこの一角は新たな住宅が建設され、こうした古い住宅表記のついた住宅を見ることがほとんど無くなりました。

「南多摩郡日野町仲町2605」の住所表記
2007-07-09

郵政省の境界石

日野図書館の建物は実は昭和30年代にできた郵便局の建物を何度か改修して使っています。その名残がこの境界石です。

ある方のブログを見ていたら、図書館前に展示してある大阪窯業製の煉瓦やこの境界石が紹介されていました。日野宿を訪ねられディープなところまで見ていただき本当にうれしいです。

日野図書館西側の市道との境界
2024-06-30
日野図書館西側の市道との境界を示す郵政省の境界石
2024-06-30

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