ほかにも残る日野宿の屋号
下の写真のような屋号看板の製作には至りませんでしたが、日野宿にはほかにもまだたくさんの屋号が残っています。
日野宿の屋号看板
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☞ 扇屋(馬場弘融家) | ☞ 橋場(河野和正家) | ☞ 大村屋(志村家) |
☞ 吉野屋(安西喜代治家) | ☞ 佐野屋(戸髙家) | ☞ 綿十/綿屋十蔵(有山董家) |
☞ 角屋(髙木昂家) | ☞ マルセ(宮崎家) | ☞ 大下(溝呂木家) |
扇屋(馬場弘融家)
「扇屋」は仲町の馬場弘融家の屋号です。馬場家は千人同心の末裔。現当主弘融氏の曾祖父兵助氏は文久3年(1863)、14代将軍家茂上洛警護の浪士組として近藤勇や土方歳三などとともに京都に赴くも、到着後ほどなくして幕命により江戸に戻り、その後新徴組の一員として江戸警護にあたったといいます。
平成21年(2009)6月5日(金)、松本保さん宅に残る「阿ふぎ也」(おうぎや 馬場弘融家)の一升徳利を見せてもらいました。なかな文字が読めませんでした。昔の人は粋な表現をするものです。実に風格がありますね。
これは余談ですが、日野宿には酒屋がかなりあったそうです。酒飲みが多かったからでしょうか。
平成22年(2010)3月27日(土)、猪鼻洋助宅に残る「扇屋酒店」(おおぎや 馬場弘融家)の一合徳利を見せてもらいました。電話番号が14番と二桁なのが面白いですね。
扇屋(馬場家)1962
馬場弘融氏撮影
橋場(河野和正家)
横町の河野家(かつてみずほ銀行日野駅前支店のあったところ)は江戸時代の八王子同心組頭の末裔です。屋号は「橋場」。家の南側を流れる山下堀に架かる橋の側に位置したことからそう呼ばれたといいます。幕末期から記された『河野清助日記』は日野宿の様子を知る上で大変貴重な史料となっています。
今ここは、1階にマツモトキヨシ(旧みずほ銀行日野駅前支店)が入るビルとなっています。
河野家東側 - 母屋・土蔵・子ども
河野和正氏所蔵
大村屋(志村家)
平成21年(2009)7月8日(水)、下の写真は金子橋の「大村屋」(志村家)の屋号看板。大東京信用組合脇の通りから奥まったところにある物置にとりつけられ今もひっそりと残されています。こういう秀作を是非復活させたいものです。
吉野屋(安西喜代治家)
「吉野屋」は横町の安西喜代治家の屋号です。店の右手が旧甲州街道です。今ここにはビルが建っています。
吉野屋(安西家屋号)前 1963頃(2) 横町
安西喜代治氏所蔵
佐野屋(戸髙家)
「佐野屋」は仲町の戸髙(戸高)家の屋号です。日野本丁目2丁目交差点の大門通り入口の向かって左側角、石塀のところが佐野屋でした。
今ここには1階に美容室が入るマンションが建っています。
大門通り入口付近
戸高要氏撮影
綿十/綿屋十蔵(有山董家)
「綿十(綿屋十蔵)」は有山董家の屋号です。混乱した幕末期の日野宿において、有山重蔵は佐藤彦五郎等とともに日野宿の顔役として奮闘した歴史的人物です。
写真左手の石垣あたりが有山家の蔵で、有山家の右隣が「嶋屋」(中嶋家)になります。
有山家(屋号「綿十」)前 - 下町 - 明治期
渡邉良勝氏所蔵
角屋(髙木昂家)
「角屋(かどや)」は下町で歯科医をされていた髙木(高木)昂家の屋号です。現在の新奥多摩街道入口交差点付近にありました。
高木家(屋号「角屋」)‐ 下町
高木昂氏撮影
マルセ(宮崎家)
仲町の「マルセ」は昭和12年(1937)に初代 宮崎精方(せいほう)氏によって作られた宮崎製材所の屋号です。
当時、川崎街道入口付近にありましたが、2度にわたる道路拡幅工事により店舗もこの写真の位置から20メートルほど南に移っています。
なお、現在は会社名も屋号と同じ「マルセ」となっています。
川崎街道入口 1964
落合和夫氏所蔵
綿久(坂田敏久家)
下町の坂田敏久家は綿の取引に関わる仕事をしていたことから屋号を「綿久」というそうです。現当主の坂田敏久さんは17代目。
写真の右手に山田種苗店(落合家)の看板がありますが、坂田家はその左隣の茅葺き屋根の家です。
坂田家、山田種苗店(落合家)落合家前
昭和20年代初頭
落合和夫氏所蔵
大下(溝呂木家)
下町の溝呂木家の屋号は「大下(おおしも)」といいます。京に向かって下手にあたることからです。ちなみにその反対は「大上(おおかさ)」。明治26年(1893)の日野宿の大火で母屋を焼失したため、八王子の千人同心組頭の子孫塩野家から買い取って移築されたという溝呂木家の母屋は、後に、小金井の江戸東京たてもの園に移され保存されています。