大工場「日野五社」
昭和5年(1930)にはじまる昭和恐慌により、危機的状況に陥った日野町は有山亮町長の下、その打開策として大企業の誘致を積極的に行いました。
昭和11年(1936)から18年(1943)にかけて、東洋時計製作所、六櫻社、東京自動車工業、富士電機製造、神戸製鋼所東京研究所の「日野五社」と呼ばれる大工場が日野町に移ってきました。この他にも、日本篩絹(ふるいぎぬ)、羽田コンクリート工業などもありました。「こうした工場の立地によって、税収が増加し、就労の場が生まれ、商店も活気づき、日野町は活況を取り戻した。」と『市制施行50周年記念特別展 日野市の半世紀~移りゆくまちの過去と今 そして未来~』(日野市郷土資料館 2013.10)に記されています。
その中の小西六工場六櫻社日野分工場(現コニカミノルタ)、東京自動車工業(現日野自動車)、東洋時計製作所(現セイコーエプソン日野事業所)の三社の写真が日野宿発見隊に提供されています。
小西六工場六櫻社日野分工場(現コニカミノルタ)
下の左の2枚は、昭和12年(1937)7月に完成した小西六工場六櫻社日野分工場の写真です。記念式典の招待客に贈られた完成記念のカードです。もう1枚は四半世紀が経った時点での小西六日野工場の航空写真です。

小西六工場六櫻社日野分工場完成記念 1937
佐藤元雄氏所蔵

小西六工場六櫻社日野分工場完成記念 1937(2)
佐藤元雄氏所蔵

小西六日野工場航空写真 1962
コニカミノルタ所蔵
東京自動車工業(現日野自動車)
昭和14年(1939)に日野に移転してきた東京自動車工業、現日野自動車は85年の時を経て、令和6年(2024)には大部分の工場棟が姿を消しました。更地となった様子を見てそのあまりの広さに驚かされました。本社機能は今後も残るとはいえ、一時代の終わりを感じさせます。

日野自動車正門 昭和30年代
鈴木英夫氏撮影
東洋時計製作所(現セイコーエプソン日野事業所)
昭和11年(1936)に新設された東洋時計製作所は、昭和21年(1946)に事業を停止。その後昭和25年(1950)に、その工場を借り受け多摩計器が設立され、翌年オリエント時計と社名を変更。それから半世紀を経て、平成21年(2009)にはセイコーエプソンの完全子会社となって現在に至っています。
吉田時計店日野工場時代の寄宿舎、オリエント時計時代の正門と受付棟、また谷仲山にあった社宅などの写真が残されています。

吉田時計店日野工場-寄宿舎絵葉書(1)全景 昭和10年代
横川裕一氏所蔵

吉田時計店日野工場-寄宿舎絵葉書(2)食堂・浴場 昭和10年代
横川裕一氏所蔵

吉田時計店日野工場-寄宿舎絵葉書(3)居室・廊下 昭和10年代
横川裕一氏所蔵
神鋼電機【移転】
前出の資料によると、昭和18年(1943)に神戸製鋼所東京研究所として、航空機に搭載する電気機器の研究・試作を目的に設立されましたが、昭和20年(1945)に神戸製鋼所東京工場に改称し、昭和24年(1949)に独立して神鋼電機の東京工場となりました。しかし、昭和54年(1979)に東京工場が閉鎖され、その跡地に日野市立大坂上中学校と都立日野台高等学校ができたそうです。
羽田ヒューム管【移転】
羽田ヒューム管株式会社は昭和16年(1941)に日野町に設立され、60年を超えてヒューム管を製造してきましたが、その後移転し、この跡地に平成17年(2005)大型マンションのニューロシティが建設されました。

参考
- 『市制施行50周年記念特別展 日野市の半世紀 ~移りゆくまちの過去と今 そして未来~』 日野市郷土資料館 2013.10