台地や建物など高所からの眺望(パノラマ写真)

現日野一小付近 昭和10年代中頃

№0651
現日野一小付近 昭和10年代中頃
小池亮一氏所蔵

大工場の進出による児童数の急増に対応するため、昭和10年(1935)代中頃に、日野尋常高等小学校の建設用地として確保された付近の風景です。しかし、その後建設中の校舎は中島飛行機の工場として使用されたため、実際に校舎として使用されたのは昭和23年(1948)からでした。左手には大昌寺、右手には下佐藤家の大ケヤキが見えます。中央付近から左方向にのびるのは大昌寺坂へと通じる道です。

大昌寺山から日野小方面 1952頃 

№1079
大昌寺山から日野小方面 1952頃 
横関勉氏撮影

大昌寺山から見た日野小。左手に増築校舎が見えるので昭和27年(1952)以降に撮られたものと考えられます。中央手前に見えるのは谷家です。

大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956

№0011
大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956
真野保氏撮影

大昌寺山から西から東へ、宝泉寺、八坂神社、大昌寺、大昌寺坂、一小方面を撮影した4枚の写真をパノラマ加工したものです。

大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956頃

№0576
大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 1956頃
志村章氏撮影

元の写真は、大昌寺山(現在の神明の台地)から、西から宝泉寺、八坂神社、大昌寺、大昌寺坂、一小と撮った4枚のスチール写真で非常に鮮明に映しだされています。これらの写真をもとに井上博司氏によりパノラマ化されたものです。樹木の生い茂った宝泉寺北側から右手(東)方面に流れる山下堀は写真のように改修工事が進められているところです。中央やや左手の杜は八坂神社。その右手に見える白い建物が広瀬屋(提灯屋、馬場家)。その後方に欣浄寺の本堂も見えます。

大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 2008

大昌寺山から宝泉寺・八坂神社・大昌寺・一小方面を望む 2008-10
井上博司氏撮影

昭和30年頃に撮影された写真とほぼ同じところから撮影したものです。大昌寺坂は姿を消し、代わりに馬場商会(ガソリンスタンド)前から神明の台地に抜ける神明坂が整備されました。また、八坂神社の南側に広がっていた一面の田んぼは姿を消し、民家や商業施設やマンションが立ち並び、すっかり変わってしまいました。

日野駅ホームから日野坂方面 昭和30年代

№0726
日野駅ホームから日野坂方面 昭和30年代
内山文子氏撮影

日野駅ホームから日野坂方面を見た写真です。中央左右に延びるのが甲州街道。その中央付近にゼネラルテレビの看板が見えます。写真右手には細見さんというそろばん塾があったとそうです。甲州街道の後方、田んぼの向こう側には東光寺道が通っています。

大昌寺山上から日野一小・役場・仲井方面を望む 1960

№0015
大昌寺山上から日野一小・役場・仲井方面を望む 1960
戸高要氏撮影

大昌寺山から見た日野一小とその周りに広がる田園風景です。写真手前一帯は山下の東部、右手は仲井とオリエント時計(現セイコーエプソン)工場で、雑木の枝の間には神明坂への道がわずかに見えます。手前の山下の田んぼの向こうには山下堀と農道が、さらにその向こうには川崎街道が横たわっており、彼方は、万願寺、石田方面。当時、小学校の東隣には消防署や役場がありましたが、現在はこのあたりは生活・保健センターなどになっています。(戸高要さん情報より)

甲州街道南側の町並み 1960 - 東方面

№0001
甲州街道南側の町並み 1960 - 東方面
戸高要氏撮影

現日野二丁目交差点付近から東方面。右手の日野一小通学路(旧大門通り)入口から左へ、戸高家(屋号は「佐野屋」)、風間製麺所、谷家(屋号は「鑰屋<かぎや>」)、末広屋乾物店、佐藤家(屋号は「藤屋」)、須藤金物店、松崎木工所、佐藤家(上佐藤家)、吉野八百屋、長田履物店、猪鼻輪業、佐藤家(下佐藤家)等が並びます。自動車の通行量は少なかったといます。(戸高要さん情報より)

『私たちの町仲町』よると、仲町の家の数は、昭和のはじめ頃は約75軒、昭和10年(1935)が約100軒、昭和40年(1965)が約200軒。 昭和8年(1933)、甲州街道は北側へ、今の道幅に広げられ、車道と人道に分けられてコンクリートでかためられ、堀はふたをされて下水になってしまったそうです。

戸高要さんによると、隣組には甲州街道を挟んだ反対側の何軒かも入っていた。道は今のような交通量ではなく人々の交流する広場だった。また子どもたちにとって通りはちょっとした遊び場だったそうです。写真右側の戸高家の家屋は昭和16(年(1941)12月に建て替えられたものとのこと。古くからある家には家印というものがあり、他の家と区別できるようにしていた。例えば、戸高家の家印(焼判)は山かさの下にカタカナの「サ」で、下駄、農機具などに付けていたとそうです。

甲州街道南側の町並み 2008 - 東方面

甲州街道南側の町並み - 東方面
2008-04-04
井上博司氏撮影

昭和35年(1960)撮影当時と同一場所から撮影したものです。マンションやアパートが立ち並び、すっかり姿を変えてしまいました。

甲州街道南側の町並み 1960 - 西方面

№0001-02
甲州街道南側の町並み 1960 - 西方面
戸高要氏撮影

現日野二丁目交差点付近から西方面、日野駅方面を撮った写真です。写真の日野一小通学路(旧大門通り)入口から右へ、真野家(屋号は「青林堂」)、小池家(屋号は「糸亀」)、武蔵屋そば店(谷家)、坂口靴店、古谷呉服店、土方菓子店、天野乾物店、振興信用組合等が並ぶ。右手は扇屋酒店、天野魚店。信号は未設置。平成19年(2007)3月に撤去された歩道橋も未設置で、旧表示の横断歩道が設けられている。歩道は戦後レンガに替わりコンクリートブロックになった。彼方の木立は八坂神社。(戸高要さん情報より)

『私たちの町仲町』によると、真野家(青林堂)はかつてお菓子屋、後に駄菓子屋を営んでいた。高幡不動尊にお参りに行く人は、青林堂でおまんじゅうを買ってから高幡まで歩いたとそうです。

真野家の隣は小池家。仲田青果の大家さんは真野家。真野家の屋号は「スシ倉」。振興信用組合の建物は3階建てでこの辺で一番高かったとのこと。

『私たちの町仲町』によると、現在川崎街道入口、古谷家(屋号は「中の古谷」)の角に立つ写真の「高幡山不動尊道」の石碑(明治17年<1884>8月建立)はかつて旧大門通りの入口に立っていた。この石碑は大正13年(1924)から昭和初年にかけて建設された昭和横町(現川崎街道入口付近)ができたとき移設されたという。なお、昭和23年(1948)頃という異説もある。

昭和35年(1960)の写真に写る横断歩道のデザインと平成20年(2008)のデザインの違いがわかるでしょうか。『令和5年度調査研究報告書 横断歩道の道路標示の見直しに関する調査研究』(自動車安全運転センター調査研究部 令和6年3月)によると、昭和35年には現在に続く「道路交通法」が施行され、信号機のある交差点付近では「2本の側線型」、それ以外では「チェッカー型」の2種とされたそうです。戸高さんの撮られたこの写真は「チェッカー型」ですのでまさしくこのときに付けられた横断歩道のデザインだったわけだ。平成4年(1992)には、「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」が改正され、側線のないゼブラ型が採用されます。平成20年(2008)の写真に見えるのはそのゼブラ型で、現在に至っています。

甲州街道南側の町並み - 西方面 2008

甲州街道南側の町並み - 西方面
2008-04-04
井上博司氏撮影

矢島家前の田んぼ 1979

№1500
矢島家前の田んぼ 1979
矢島壽男氏撮影

現栄町一丁目矢島家の東側方面の様子です。家の前には一面の田んぼが見えます。中央には日野宮神社の大ケヤキの姿も見えます。この地区一帯は区画整理事業により大きく変貌しました。

四ツ谷薬王寺 1977

№0157
四ツ谷薬王寺 1977
松本保氏撮影

薬王寺は古くは日野宮神社の別当寺で、高幡不動尊の隠居寺としても使われていました。2本のイチョウの木と数本の欅の大木が存在し、鬱蒼とした森となっていました。薬王寺前の堀にあった梅の木は春の到来を真っ先に知らせ、その後、周りの田圃は一面のれんげ畑となりました。しかし、この地区の区画整理事業が進行するなかで辺りの様相は一変し、田圃は姿を消し、周りにはマンションや大型店舗が建ち並びます。そして、薬王寺の北東の中央線付近では、立日橋方面から東光寺方向へ抜ける道路のためにトンネルができました。また、薬王寺も本堂が建設されました。2本のイチョウの木は今も健在です。中央遠方に雪を冠った富士山が見えます。

日野市役所屋上から南側の眺望 1978

№1826
日野市役所屋上から南側の眺望
1978-03-24
日野市立図書館撮影

昭和52年(1977)開庁となった日野市役所新庁舎の屋上から南側を撮った写真を井上博司氏によってパノラマ化された写真です。多摩丘陵の尾根、浅川、南平、平山方面が見えます。市役所南側の公園はまだなく、駐車場となっています。

日野市役所屋上から北側の眺望 1978

№1825
日野市役所屋上から北側の眺望
1978-03-24
日野市立図書館撮影

昭和52年(1977)開庁となった日野市役所新庁舎の屋上から北側を撮った写真を井上博司氏によってパノラマ化された写真です。中央の道路にはまだ桜並木の姿が見えません。その道路の右側には実践女子短大の校舎が見えます。

蚕糸試験場日野桑園跡地 1980

№0169
蚕糸試験場日野桑園跡地 1980
松本保氏撮影

整地中の蚕糸試験場跡地を日野一中屋上から撮影した写真4枚(0169~0172)を、谷享司氏(井上博司氏補正)によりパノラマ写真に修整されたものです。この跡の手前にスポーツ公園が建設されました。

旧日野一中屋上より南東から西南 1980

№0173
旧日野一中屋上より南東から西南 1980
松本保氏撮影

旧一中校舎の屋上より南東から西南方面の町並みです。手前中央に福祉センター、中央公民館、日野児童館と並びます。神明上には市役所が見えます。

矢島家から薬王寺方面 1988

№1197
矢島家から薬王寺方面 1988
矢島壽男氏撮影

現栄町一丁目矢島家から薬王寺方向を撮った写真です。手前には市民農園が見えます。かつては鬱蒼とした樹木に覆われいた薬王寺でしたが、この頃境内にあった建物は片付けられとともに、境内のケヤキも枝を落とされました。さらにこの後、ケヤキの大木も伐採され、2本のイチョウの木だけが残りました。

薬王寺東側の鉄道脇から南方面を望む 1988

№0843
薬王寺東側の鉄道脇から南方面を望む 1988
矢島壽男氏撮影

田園に連なる看板が目をひきます。田圃にはレンゲ草が彩っています。右手に薬王寺堀。現在は土地区画整理が終了し、田圃は無くなり集合住宅や大型店舗が立ち並びます。薬王寺堀は隣接する四ツ谷公園とともに整備されています。

薬王寺東側の鉄道脇から南方面を望む 2009

2009-05-10

日野駅北線路脇土手上より西側田園地帯を望む 1990

№0841
日野駅北線路脇土手上より西側田園地帯を望む 1990
矢島壽男氏撮影

日野駅北線路脇土手上より西側田園地帯を撮った写真です。薬王寺の豊かな樹木は姿を消し、わずかにイチョウの大木とケヤキが数本残るのみとなりました。写真中央はるか遠方には日野宮神社の杜が見えます。

日野駅北線路脇土手上より西側方面を望む 1994

№0842
日野駅北線路脇土手上より西側方面を望む 1994
矢島壽男氏撮影

雪の日、日野駅北線路脇土手上から西側方面を撮ったパノラマ写真です。薬王寺の鬱蒼とした樹木は姿を消し、寺の周りには塀が築かれています。この後、この辺一帯の区画整理事業が進み、田んぼは姿を消して商業施設や民家が建設され、大きく変貌しました。

上田の旧火の見櫓付近から西方面の眺め 2000年初頭

№1515
上田の旧火の見櫓付近から西方面の眺め 2000年初頭
渡辺毅氏撮影

上田園、渡辺毅家(上田)前、旧火の見櫓付近(工事車両)から西方面の様子です。南側は左手に渡辺毅家の梨園。道路を挟んで右の青い屋根の建物が渡辺毅の納屋。その右が渡辺毅宅。はるか遠方神明の台地には日野市役所が見えます。
手前建設中の道路は平成19年(2007)4月、甲州街道のバイパスとして開通しました。

上田の旧火の見櫓付近から南方面の眺め 2000年初頭

№1514
上田の旧火の見櫓付近から南方面の眺め 2000年初頭
渡辺毅氏撮影

田園、渡辺毅家(上田)前、旧火の見櫓付近(工事車両)から南方面の景色です。南側は手前が渡辺毅家の梨園。はるか遠方に南平の丘陵地が見えます。南東側に高幡駅近くの建物が見えます。手前建設中の道路で、平成19年(2007)4月、甲州街道のバイパスとして開通しました。

東光寺小裏山から東方面 2007

東光寺小裏山から東方面 2007

東光寺小学校の裏山から東側を撮った写真です。中央に東光寺小学校の校舎と運動場。その奥に新坂下住宅。右手には中央自動車道が見えます。はるか遠方に都心のビル群も見え、東京スカイツリーも見ることができます。

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