日野宿の坂 

日野宿には大昌寺坂や旧甲州街道日野坂のように日野台地に上がるための坂がいくつかあります。

かつては神明上の台地にある畑(飛び地)に行くための大動脈だった大昌寺坂は、土地区画整理事業が進み、大きく道筋を変えて通された市役所通りの坂ができたため姿を消しました。

一方、東光寺大坂のように昔からの道筋をほとんど変えていない坂もあります。

★随時追加中です。

大昌寺坂

  • 大昌寺坂はいつ頃できたのでしょうか。人工的なものなのでしょうか。大昌寺山に切通しを作ったときの残土を盛ったものなのでしょうか。江戸時代後期天保14年(1844)の絵図(天野尚家蔵『日野本郷絵図』)にはそれらしき道筋も見えますが詳細は不明です。
  • 戦前、当時の有山亮町長により、生活困窮者対象の「救農土木事業」の一環として大昌寺坂の改修が行われたとの記録があります。(『日野市史 近代編』より)
  • 大昌寺坂は七曲りともいわれた。<溝呂木氏談>
  • 自転車で大昌寺山からこの坂を下ってきて転落したことがある。<青木守氏談>
  • 一小手前の農家は金子家。金子家の左手にプラタナスの木があったといいます。
  • 中央線の西側から流れてきた山下堀が大昌寺坂手前で左折する付近に石仏があったそうです。
  • 戦時中に坂の途中に掘られた防空壕がたくさん残っていたそうです。
大昌寺坂回想
戸高要氏作品

御駒止之松から御野立所(御野立場)への坂

御駒止之松は大正10(1921)年11月17日、昭和天皇が皇太子時代、陸軍特別大演習で日野に行啓の折、ここで下馬し、愛馬を止められたのを記念して町によって植えられました。一行はここから御野立所(御野立場)までの坂を登っていかれたと言われています。

東光寺大坂

七ツ塚古墳群がある日野台地から東光寺地区に抜ける坂です。昭和46年(1971)に成就院(栄町五丁目5-1)境内に移設されるまで、この東光寺大坂と東光寺道(都道 169 号)の交差点付近に東光寺薬師堂がありました。

土地区画整理事業により坂はきれいに整備されました。同時に東光寺道のバイパス建設に伴い、突き当たりにあった火の見櫓は姿を消しましたが、薬師堂跡に立つイトヒバは今も健在です。

日野坂

日野坂ができて間もないころの昭和10年代から、中央自動車の調布-八王子インター間が完成した昭和42年(1967)12月を経て、昭和50年代までの日野坂の写真です。

山下神明社の東側を抜けて神明上台地に通じる坂

神明社の東側を抜けて神明上台地に通じる、昭和40年代に整備された坂です。写真を見ると後方に昭和42年(1967)12月に完成した中央自動車道の橋脚が見えます。後方の樹木が見えるあたりが山下の神明社です。左手前付近には通称「百段階段」があります。

横町坂

横町の飯綱権現社や坂下地蔵堂の前の横町坂です。この坂道を上り旧踏切を渡って大坂を経て日野台地に至る道が旧甲州街道です。

江戸時代、参勤交代の大名をはじめ旅人は、坂下地蔵の前のこの坂を通り江戸へあるいは甲州へと旅路を急いだのでした。

八王子千人同心組頭の河野清介は慶応4年(1868)3月6日の日記に、甲州勝沼から援軍を要請するために、「石田出生土方歳(歳三)早馬ニテ下ル」と土方歳三がこの坂を駆け抜けたことを記しています。

第三小学校脇に出る坂

新町の住宅街から第三小学校脇へと通じる坂です。後方に中央自動車の橋脚が見えます。半世紀が経ってもあまり変化がないようですが、第三小学校に通う子どもたちにとってはあいかわらずきつい坂のようです。

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