日野宿の蔵
日野宿発見隊では平成23年(2011)6月11日(土)に、まち歩き会「日野宿蔵めぐり」(第33弾)を開催しました。時が経ち、その中にも令和6年(2024)の今日にはすでに姿を消した蔵もあります。
実は土地区画整理事業のなかで姿を消した蔵がほかにもたくさんあります。
ここでは、そんな蔵も含めて、日野宿のアーカイブとしてあえてご紹介します。
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日野宿の中心街を上空から撮った写真 大正15年(1926)3月撮影
右端に「(?)武居曹長 (操)遠藤軍曹」との記述があります。この両者のどちらかが扇屋(馬場家屋号)の借家にいたとそうです。左端の白い部分は飛行機の翼の部分で、そこに「日野町仲町谷庄之助」の記述があります。谷庄之助氏は日野町仲町の池田屋(谷家屋号)の出身で、立川の飛行第5戦隊に所属していました。
この写真のなかにも母屋の隣に大きな蔵のある家がいくつかあります。仲町だけでも、通りに面して左から、中村屋(渡邉家)、扇屋(馬場家)、道を挟んで反対側に藤屋(佐藤家)などの蔵がみえます。
河野正夫家の蔵(横町)
左の写真は旧甲州街道側(東側)から撮った河野家の母屋(左)と明治17年(1884)建築の土蔵(右)です。その間の片屋根の付属屋が、かつて質屋を営んでいたことから「店」と呼ばれていた部分。右方向が甲州街道方面です。
最後の写真は区画整理事業が進むなか、平成8年(1996)ついに解体の時がやってきたころの写真です。
扇屋の蔵(森町)
「扇屋」は馬場家の屋号。現日野本町二丁目交差点角にあった扇屋酒店です。
馬場家は千人同心の末裔。現当主弘融氏の曾祖父兵助氏は文久3年(1863)、14代将軍家茂上洛警護の浪士組として近藤勇や土方歳三などとともに京都に赴くも、到着後ほどなくして幕命により江戸に戻り、その後新徴組の一員として江戸警護にあたったといいます。
右の建物がその由緒ある扇屋の蔵ですが、昭和49年(1974)3月の道路新設のために姿を消しました。
渡邉良勝家の店蔵( 金子橋)
渡邉家は屋号を「中村屋」といい、かつて米・味噌・塩・酒、日用品を販売していたそうで、現在も当時を偲ばせる徳利や調度品が大切に保存されています。
この店蔵が建設されたのは江戸末期から明治初期といわれています。建設当初は土蔵でしたが、関東大震災の影響を受け、昭和5年(1930)に大谷石による張石蔵へと改修された、日野宿の文化を物語る貴重な建物です。昭和30年(1955)ごろには日野医院として一時期使用されたこともあったそうです。
平成22年(2010)3月にこの蔵が東京都歴史的建造物に指定されました。特別公開の折、見学させていただきましたが、蔵のなかは別世界。小窓から見る甲州街道の眺めはとても不思議な感じがしたものです。
下佐藤家の蔵(仲町)
佐藤元雄家の蔵(仲町)
佐藤元雄家の屋号は「藤屋」といいます。同家は東隣りの上佐藤家(現佐藤信行家)の分家で、母屋は下佐藤家、現本陣が建てられた同時期の元治元年(1864)に建てられたとのこと、その母屋の西隣りに蔵があります。この蔵には代々長男のみしか入れないそうです。白蛇のぬけがらが蔵の守り神として大切に祀られているのにはちょっと驚きました。
古谷呉服店の店蔵(仲町)
古谷呉服店の店蔵は昭和2年(1927)に建設されました。現在は「333 hair works」(美容院)として使われています。
有山董家の蔵(下町)
有山董(ただし)家。屋号は「綿十」。幕末期、新選組の支援者、日野宿名主、佐藤彦五郎の四男、彦吉が養子として入った旧家です。彦吉の息子、亮氏は戦前の町長。その息子、崧(たかし)氏は日本図書館協会の事務局長を経て、2代目の日野市長。現御当主の御尊父です。
有山家の右側には「嶋屋」(中嶋家)「油屋」(古谷家)などの立派な蔵も見えます。
日野銀行は明治15年(1882)【川崎氏の別の資料によると建築年代を明治30年(1897)頃という記事あり】に建築され、当初は一般的な土蔵造りの店蔵だったのを、大正末から昭和初期に改築され現在のような洋風の外観に改修されたそうです。(川﨑 和彦/著[東京都建築士事務所協会たちかわ支部副支部長、一級建築士事務所杢和設計]『コア東京』2018年5月号より)
構造は木骨造(土蔵造り)2階建て人造石洗出し仕上げ。屋根は切妻銅板葺き。
土方家の蔵(下町)
下町の土方家(屋号「土屋」)の蔵です。
坂田敏久家の蔵(下町)
坂田敏久家は綿の取引に関わる仕事をしていたことから屋号を「綿久」というそうです。坂田さんは十七代目だとのことです。残念ながら坂田家の石蔵は少し前の母屋の建て替え時に姿を消しています。
溝呂木家の蔵(下宿「大下」)
溝呂木家は明治26年(1893)の日野宿の大火で母屋を焼失したのですが、八王子の千人同心組頭の子孫塩野家から買い取って移築されたという母屋が、現在、小金井の江戸東京たてもの園に保存されています。
蔵そのものの建築年は不明のようですが、歴史を感じさせる、形のとてもよい蔵です。
ギャラリーカフェ大屋(森町)
「大屋」(志村家の屋号)は荒物屋(酒も扱っていた)を営んでいました。建物はいわゆる見世蔵といわれるものです。
志村家は甲州の出身で、炭、生糸、油、砂糖を扱っていました。毎年麦わら屋根の修理に職人がやってくるとここに泊まったそうです。戦後しばらくして、この建物は他人に貸出され、佐伯米店、あずま屋、大沢米店と続きましたが、現在は木村さん夫妻の住まいとなり、1階部分でギャラリー&カフェ大屋を営んでいます。
谷正幸家の蔵(谷戸)
平成22年(2010)10月2日(土)開催の日野宿子ども発見隊「まちを調べよう!パート2」(特別企画第2弾)で谷戸の谷正幸家を伺ったときの写真です。百年以上も前の蔵に上がらせてもらいました。保存されている民具や農機具などに興味津々の子どもたちでした。
車・伊藤家の蔵(下宿/下町)
留ぐるま/伊藤水車の伊藤家の蔵は昭和6年(1931)から7年ごろに建築されたそうです。
写真準備中
滝瀬家の蔵(下河原)
滝瀬家には蔵が2棟あり、1棟は大谷石造り、もう1棟は人造石洗出し仕上げ(石を砕きセメントで固めた工法)です。
写真№1333の中央に見えるのが滝瀬家の蔵です。また写真№1591では中央の母屋の左側に2棟の蔵が見えます。
岩澤正典家の蔵(下河原)
平成18年(2008)3月29日に開催されたまち歩き会「旧甲州街道日野の渡しと旧家を訪ねて」(第11弾)で伺ったときに「戦時中この地区では米軍の爆撃による被害があったんです」と話された岩澤さんでしたが、平成22年(2010)に亡くなられてしまいました。
蔵は総大谷石造りです。この蔵も区画整理事業が進むなかどのようになるのか心配です。
古谷栄家の蔵【消滅】
平成20年(2008)3月8日、まち歩き会開催のため下見に出かけた時に、第3代日野市長古谷栄家の蔵を西側から撮らせてもらった写真です。
日野橋南詰近くに広大な敷地を要する古谷家。№0617の集合写真は昭和37年(1962)、立川基地米軍司令官夫人を迎えて催し物が開かれた時の記念写真です。前列右から5人目が古谷栄夫人です。
しかし令和6年(2024)この蔵も含めた家屋がすべて取り壊され宅地に造成されようとしています。
天野眼科の蔵(四ツ谷)
天野家は四ツ谷の旧家で、代々医院を開業しています。現在の御当主は眼科医です。
1枚は平成19年(2007)3月24日(土)に開催された日野宿発見隊のまち歩き会「日野のむかしと春を訪ねて」(第4弾)で訪ねたときに撮らせていただいた天野家の門と蔵です。もう1枚は最近南側から撮った天野家の蔵です。
岩澤家の蔵(万願寺)
平成24年(2012)3月24日(土)「弥生のまち歩き会-万願寺・万願荘・東町方面-」(第40弾)でお邪魔したときに撮影した岩澤家の蔵です。モノレール建設に伴う区画整理事業により左手の旧位置から曳家によって現在の位置に移したとのことでした。
八坂神社の蔵(森町)
八坂神社の蔵は石蔵で覆殿の右隣にあります。蔵のなかにはお神輿など日野宿にとっては無くてはならない貴重な品々がが納められています。
井上雅雄家の蔵(金子橋)
金子橋の井上家は八王子千人同心井上松五郎の末裔で、松五郎の弟の井上源三郎は新選組六番隊組長として混乱する幕末の京都で奮闘するも、鳥羽伏見の戦いでむなしく討死しました。
この両名を顕彰すべく、子孫の現当主井上雅雄氏が蔵を活用し井上源三郎資料館を開設しています。写真は旧館と新館の外観です。
奥住家の蔵(東光寺)
栄町5丁目交差点近くの奥住家の大谷石造りの石蔵です。
佐藤旭家の蔵(宮)
旧日野市農業協同組合の米蔵【消滅】
平成30年(2018)12月15日(土)まち歩き会 「まちかど写真館めぐり」(第87弾)のプレミア見学会で、旧日野市農業協同組合の大谷石の米蔵を特別に見学させていただきました。
しかし残念ながら、この後、この石蔵をはじめ旧日野市農業協同組合の施設はすべて無くなり更地になってしまいました。
釜屋の蔵の鍵
猪鼻さん宅で保存されている仲町の釜屋(三浦家屋号)の蔵の鍵です。持ちての部分に日野宿の大火で燃えた時の焼け跡が残っています。後ろに見えるのは仲町の旧家の門の扉です。
参考
- 『日野の土蔵調査 1993年9月実施』杢和設計 川崎和彦氏作成
- 仮称『下河原観音様としたがらばなしーおまけに下宿・川原ー』鈴木邦夫/著