日野宿に残る謂(いわ)れのある石
日野宿には普門寺の八幡石などの謂(いわ)れのある石がいくつかあります。
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普門寺の八幡石
普門寺の門を入り本堂に向かって石畳を進むと、右手に赤松の大木があります。その右下に、高さ120㎝、横2mほどの大きな自然石があります。これが八幡石で次のような言い伝えがあります。
「寛文(1661~1673)のころ、普門寺のお坊さんがある夜不思議な夢を見ました。夢のお告げに『昔北条氏照という大名が建てたお社が、今は荒れ果てている。それを探し出してお寺にまつり直しなさい』とありました。告げられたとおり、お坊さんは高倉の西北(今の日野台五丁目付近)にある小さな塚を掘ったところ、大きな石が出てきました。そこで石をのけると、中から鉄の鏃(やじり)や刀剣のようなものが出てきましたが、それらはくさってぼろぼろでした。お坊さんはこの大石を寺へ運ぼうと思い立ち、宿中の人々に頼んで、太い綱をつけて引いてきて貰いました。女衆たちもみんなのためににぎり飯を炊き出しを受け持ちました。運んできた大石は、寺の鎮守の八幡様として大切におまつりしましたが、それからというもの普門寺は大層繁栄したということです。」(『日野市史 民俗編』より)
大六天と刻まれた石
上屋敷(かみやしき)に祀(まつ)られていた大六天(第六天)です。かの織田信長が信奉(しんぽう)したという第六天魔王を祀る神社は関東地方に多いそうです。当時この場所にはあまり近寄るなと、子どもたちは親から言われていたそうです。現在この辺りは都道に姿をかえ、大六天自体も薬王寺境内に祀られています。
『日野市史 民俗編』には以下のように紹介されています。
「昭和10年ごろまでは平地林の一角の藪地で、蝮がいるとか祟りがあるからちかよるななどといわれて、恐れられていたが、現在は宅地化し、自然石の『大六天』の石碑が残るのみである。元禄13年(1700)の『日野本郷指出帳』には『除地、大六天、別当薬王寺」(史 地誌 135頁)とあり、約300年前既に祀られていたことが分かる。」
日野尋常高等小学校校門礎石
昭和30年代の日野町の写真や仲町界隈を描いたイラストなど、数多くの貴重な資料を提供いただいた戸高要(もとむ)氏(屋号「佐野屋」)や、郷土史研究に熱心に取り組まれている猪鼻洋助氏(猪鼻輪業)から、予てより日野尋常高等小学校校門礎石保存のご指摘を受けていました。
中嶋基宏氏(屋号「嶋屋」)より提供いただいた同氏の叔母阪入志津枝さんの昭和4(1929)年卒業アルバムに、偶然にも前述の校門部分の写真が掲載されておりましたことから、早速市役所文化スポーツ課の学芸員に確認を求めたところ、ほぼ礎石にまちがいないとの回答を得て、平成20(2008)年3月13日(木)、ゆかりの方々にお集まりいただき発掘および移設のセレモニーを開催しました。
礎石は日野図書館前の日野宿問屋場・高札場跡の記念碑の隣に解説文とともに展示しております。日野の学校教育発祥の地の歴史的遺産として永く保存していきたいと考えます。
なお、猪鼻洋助さんによると、日野宿問屋場・高札場跡の記念碑は大門橋の御影石を使ったそうです。揮毫は北原の元八王子信用金庫(現多摩信用金庫)の理事長だった佐藤信雄氏で、北原自治会会館の表札も佐藤氏の揮毫だそうです。
滝瀬弓太郎之碑
平成20年(2008)3月6日(木)午後、猪鼻洋助さんと自転車で市内のプチ文化財巡りをしてきました。
川崎街道を南に進み、日野郵便局本局のちょうど斜向かい付近にある墓地に建てられているのが「滝瀬弓太郎之碑」(顕彰碑)です。
滝瀬弓太郎は宮地区の「ぬすっと薬師」のお堂があったところで、村の子どもたちに勉強を教えていたそうです。地域教育に貢献した滝瀬弓太郎を顕彰しこの記念碑が建てられたということです。
ところで、「ぬすっと薬師」について、土淵英夫さんが『八坂の杜』でこのように紹介しています。
「前文略 そのお堂にいつのころか、浮浪者が住みつき、近処の畑や民家から芋や野菜などを盗んで、生活をしていたというのです。『ぬすっと」はその浮浪者だったわけです。
大正末期から昭和のはじめに、高幡道(都道137号線・川崎街道)が、まっすぐに改修された際、その墓地は切り離され、更に日野警察署の宮駐在所が、宮の村なかから移って来たということは、あまりにも皮肉な話ではありませんか。
また、そのもとの薬師堂の建物は、草葺ではありましたが、欅造の狐格子のはまった洒落な辻堂であったということです。しかし、悪者の巣になったりして、管理しきれないということで、上田に移り住んできた某氏の、家の材料として気前よくやってしまったそうです。だがそれも現在は残っていません。
薬師三尊をはじめとして、十二神将などの仏像も盗まれたり、人にやったりして四散してしまったとのことです。」
北原本通り改修記念碑
北原本通り改修記念碑は、北原本通り請おき願道路拡幅工事の完成を記念して、昭和39年(1964)3月8日に建てられました。
コレラ庚申塔
平成18年(2008)3月29日(土)に開催されたまち歩き会「旧甲州街道日野の渡しと旧家を訪ねて」(第11弾)で訪ねたときの万延元年(1860)8月庚申、日野万願寺上組講中により建立のコレラ庚申塔です。このときは区画整理事業が進むなか居場所がまだおちつかないといった様子でした。
令和6年(2024)6月24(水)に改めて訪ねてみると、表側の「庚申塔」の文字が無くなっていました。かろうじて脇の「万延元年八月庚申」の銘が残るだけでした。
「広報ひの」平成 24 年(2012)6月 15 日号に掲載された日野市郷土資料館 北村澄江氏の記事によると、「安政5年(1858)の大流行の時には、全国で約4万人が亡くなったといわれ、致死率が高いため、「三日コロリ」と恐れられ、人々は神仏に祈ったり、まじないをしたりしたそうです。日野にも、万願寺にコレラの流行が収まるように祈願して」この庚申塔が建てられ、おかげで当時の日野宿では患者が1人も発生しなかったということです。
御野立記念碑
大正10年(1921)11月17日、昭和天皇(当時は摂政)が陸軍大演習に行啓されたのを記念して建てれた記念碑です。現在記念碑は矢の山公園内にあります。なお同公園内には「皇太子殿下御手植之松」(後の昭和天皇)の記念碑も建っています。
上記の陸軍大演習については『大正十年陸軍特別大演習東京府記録』<東京府 大正14年(1925)6月刊>に詳細に記録されています。
道路開通記念碑(四ツ谷)
明治22年(1889)に甲武鉄道が八王子まで通ったとき、四ツ谷地区の生活圏は否応なく分断されてしまいました。
踏切はあったものの急勾配で、大八車を引いて渡るには大変難儀したそうです。それから約30年後の大正10年(1921)3月11日に、四ツ谷の人たちの要望が通り、漸く線路下を抜ける新道が完成しました。
この新道建設に至るまでの村人たちの苦労を偲び、この史実を後世に伝えるために、昭和28年(1953)3月11日、この道路開通記念碑が建てられたのでした。