日野宿の冠婚葬祭/年中行事

日野宿で長年行われてきた冠婚葬祭の様子を紹介します。
なお、八坂神社の祭りについてはこちらをご覧ください。

★順次追加中です。

宝船と繭玉飾り

令和元年(2019)10月22日未明に他界された北原の松本保翁によって作られた宝船と繭玉飾りです。

生前、松本翁は毎年師走に正月のしめ飾りを手作りし、公共施設などに寄贈され大変喜ばれていました。現在は息子さんが仲間たちとこの伝統を引き継がれています。

五穀豊穣を願って奉納された宝船
2007-01-26
繭玉飾り
土台に使われているのは石臼です。
蚕がよくできるようにと繭玉になぞらえた団子やみかんを飾る風習で、
松本家ならではの瓢箪もいっしょに飾られています。
2017-01-14

初午/お稲荷さん

森町志村家の初午

平成20年(2008)2月12日(火)、志村さん宅(森町)の初午の様子を見せていただきました。

写真左は敷地内に祀られたお稲荷さんです。祠の中に金色のお稲荷さんが祀られています。まわりに大きな石があるのも不思議です。

毎年初午には、「正一位稲荷大明神」と記した幟を奉納し、御神酒を初め多数のお供え物を上げ、志村家の平安を祈願するといいます。

現在も大切な屋敷神として大事に祀られています。子どものころ、初午にはお稲荷さんの前で焚き火をしながら、近所の子も交えて甘酒をいただいたりして楽しかったとのことです。

1956-02
2008-02-12
金子橋馬場家の初午

平成23年(2011)2月8日、金子橋の馬場家の初午を見学させていただいたときの写真です。

「正一位福寿稲荷大明神」の歴代ののぼり旗が馬場家の歴史を感じさせます。

馬場家のお稲荷さん
「正一位福寿稲荷大明神」ののぼり旗
歴代の「正一位福寿稲荷大明神」ののぼり旗
北原の初午(北原共同稲荷講)

平成20年(2008)2月10日(日)、北原の松本保さんのご紹介で、同氏宅の北側にあるお稲荷さん前で執り行われた初午の行事に同席させていただきました。

古くからこの地に住む方ばかりでなく、今では他所に移ってしまった方も加わり、各自で持ち寄った食べ物や飲み物を奉納し、皆さんで五穀豊穣を祈願していました。

北原共同稲荷講は13名で構成し、御神体は「正一位稲荷大明神 日野北原 弘化五(一八四八)戊申正月」と木箱に墨書きされているものが残っているそうです。

しかし残念ながら、令和4年(2022)には写真のように更地になってしまいました。昔ながらの風習がまたひとつ消えてしまいました。どうか後方に見えるケヤキは伐られないでほしいものです。

北原の初午
2008-02-10
2022 北側から南方面を望む
森町消防小屋脇のお稲荷さん

平成19年(2007)7月16日(月)、森町消防小屋の脇にあるお稲荷さんを撮った写真です。

お稲荷さんは日野宿内でもよく見られますが、こんな風にさびしそうに佇むお稲荷さんは初めて見ました。そんな不安が的中してしまいました。翌年、この一角が駐車場になったとき、このお稲荷さんはどこかへ消えてしまいました。

おそらく信仰心のあつい人によって建てられたものでしょうが、こうして歴史の流れの中に葬りさられていくのを見るのはつらいものがあります。

森町の消防小屋
左端にお稲荷さんが写っている。
姿を消したお稲荷さん
2007-07-16
波除稲荷

特養老人ホーム「カトレア」近くの松本さんのところに「波除稲荷」があります。

個人宅にあるので壁越しにしか見られませんが、戦時中は戦地で銃弾に当たらぬようにと、このお稲荷さんに願掛けをして出征したそうです。

雪遊び

№0965
雪で遊ぶ幼児 昭和30年代初頭
佐藤六壽氏撮影

雛祭り

雛祭り飾り
戸高三代子氏所蔵

端午の節句

北原の松本保さんのところの鯉のぼりです。これだけのものをあげているお宅は今はあまり見かけません。近くの幼稚園の園児たちが目を丸くして見ている姿が微笑ましい限りです。

日野宿には下町に鈴藤という人形屋さんがあります。そこで作られた鯉のぼりや五月人形がかつては日野宿のどこでも見られたようです。

気持ちよさそうに泳ぐ鯉のぼり
松本保家
2017-04-22
№0581
鯉のぼりの鱗描き 1956頃-鈴藤人形店
山本昭三(てるぞう)氏撮影
松本保家の鯉のぼりの大きさの解説
松本保家の鯉のぼり
2018-05
№0629
五月人形 - 鈴藤人形店 1932 
天野トメ氏所蔵
№1187
鈴木商店(人形専門店「鈴藤」)1933
現上皇に献上された「天覧品 桃心齋 重月 謹作」の銘
鈴木藤隆氏所蔵

三浦家の五月人形(仲町)

三浦家の五月人形

鵜飼い

日野宿には鵜飼いを見せながら鮎料理をふるまう玉川亭という店がありました。

明治20年代に天野要蔵が旧渡船場近くに玉川亭を開業し、甲武鉄道を利用して多くの客が押し寄せにぎわったそうです。

天野一利氏の父親が亡くなった後も、母親の手によって営業されていましたが、昭和10年代についに閉店したそうです。

写真No.1182の中央の男性が一利氏の父親で、店では6、7羽の鵜を飼っていたといいます。

夏休み

川遊び

川岸が当時は蛇かごでした。

戦前は毎年のように深みにはまって亡くなる子どもがいました。昔はプールなどなかったので、多摩川で年上の連中から手荒な方法で泳ぎを教えられたそうです。また仕事帰りに多摩川でひと泳ぎして帰る勤め人もいたということです。

農薬や工業用水の流入により川の水質悪化が進み、川遊びができなくなる昭和40年初頭まで、多摩川での水遊びは夏の風物詩でした。

お釜様ダンゴ

お釜様(かまど神)とは竈の神様・荒神様のことです。

10月は他の神様がみんな出雲に帰られてしまうが、お釜様だけは地元に残りひとりでご馳走にあずかり、10月30日にようやく出雲に帰られるそうです。

写真のように藁苞(わらつと)に入れたダンゴをお土産としてお釜様に持たせて見送るという風習です。

藁苞(わらつと)に入れたお釜様ダンゴ
2017-01-18
松本保氏撮影

産業祭

産業祭に出品した宝船
2007-11-16

結婚式/披露宴

昭和30年代の日野宿で挙行された結婚式の様子を紹介します。

当時は自宅で行われるのが一般的でした。近所づきあいも今より濃い時代だったので披露宴には招待者も多くことのほか盛大だったようです。

葬儀/葬式

昭和初期から昭和40年代の葬儀・葬式の様子を撮った写真です。

昭和初期には遺族の女性たちが白い喪服を着ているのが特徴的です。

昭和10年代初期には戦死した兵士の葬儀を町で行っているのがわかります。

しかし戦況が厳しくなると町の葬儀はなくなり、各家での個別の葬式となっています。

戦後も昭和40年代にもなると平和な世の中になり、残された人たちによって故人を厚く弔う様子が見えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

nineteen − 13 =