日野宿の冠婚葬祭や年中行事
日野宿で長年行われてきた冠婚葬祭や年中行事の様子を紹介します。
なお、八坂神社の祭りについてはこちらをご覧ください。
☞ 門松 | ☞ 正月飾り | ☞ 宝船と繭玉飾り |
☞ 賽の神(どんど焼き) 小正月の行事 | ☞ 初午/お稲荷さん | ☞ 雪遊び |
☞ 雛祭り | ☞ 端午の節句 | ☞ 鵜飼い |
☞ 夏休み | ☞ 盆踊り | ☞ お釜様ダンゴ |
☞ 産業祭 | ☞ 芋煮会 | ☞ 結婚式/披露宴 |
☞ 葬儀/葬式 |
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門松
▶門松の製作 2024年11月~12月
北原の松本さんたち日野自動車優和会のみなさんは毎年門松を手造りされ、日野市役所や日野自動車本社などに寄贈されています。
11月から12月にかけての3日間にかけて取り組まれる門松作りの様子を見せていただき、ここに記録に留めさせていただきました。
正月飾り
正月飾りのお話です。日野宿では松ではなく杉を飾るというお宅が見られます。一説には大国主命にまつわる神話から来ているとか、松は目を傷つけるから避けるとかいろいろあるようです。日野宿発見隊のメンバーのなかでも下町下河原在住のメンバーのお宅に見られます。。
宝船と繭玉飾り
令和元年(2019)10月22日未明に他界された北原の松本保翁によって作られた宝船と繭玉飾りです。
生前、松本翁は毎年師走に正月のしめ飾りを手作りし、公共施設などに寄贈され大変喜ばれていました。現在は息子さんが仲間たちとこの伝統を引き継がれています。
賽の神(どんど焼き) 小正月の行事
「賽の神(サイノカミ)」を奉り、正月のお飾りや書初め等を持ち寄って、それを燃やす事によって、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣などを願う行事です。どんど焼きとも言います。日野宿でも各地区で行われています。
▶下田の賽の神
下田の水車公園(現万願寺二丁目)及び車屋釣具店付近で行われた賽の神(どんど焼き)。
▶四ツ谷の賽の神
四ツ谷の日野宮神社境内で毎年行われている賽の神(どんど焼き)です。持ち寄った正月のお飾りや書初め等を燃やし、その火に篠竹の先につけたピンポン玉ぐらいの大きさの団子をかざして焼いて食べます。無業息災を願う縁起物として家族で食べます。
初午/お稲荷さん
▶志村章家の初午(森町)
平成20年(2008)2月12日(火)、志村さん宅(森町)の初午の様子を見せていただきました。
写真左は敷地内に祀られたお稲荷さんです。祠の中に金色のお稲荷さんが祀られています。まわりに大きな石があるのも不思議です。
毎年初午には、「正一位稲荷大明神」と記した幟を奉納し、御神酒を初め多数のお供え物を上げ、志村家の平安を祈願するといいます。
現在も大切な屋敷神として大事に祀られています。子どものころ、初午にはお稲荷さんの前で焚き火をしながら、近所の子も交えて甘酒をいただいたりして楽しかったとのことです。
▶馬場一衛家の初午(金子橋)
平成23年(2011)2月8日、金子橋の馬場家の初午を見学させていただいたときの写真です。
「正一位福寿稲荷大明神」の歴代の幟旗が馬場家の歴史を感じさせます。
▶北原の初午(北原共同稲荷講)
平成20年(2008)2月10日(日)、北原の松本保さんのご紹介で、同氏宅の北側にあるお稲荷さん前で執り行われた初午の行事に同席させていただきました。
古くからこの地に住む方ばかりでなく、今では他所に移ってしまった方も加わり、各自で持ち寄った食べ物や飲み物を奉納し、皆さんで五穀豊穣を祈願していました。
北原共同稲荷講は13名で構成し、御神体は「正一位稲荷大明神 日野北原 弘化五(一八四八)戊申正月」と木箱に墨書きされているものが残っているそうです。
しかし残念ながら、令和4年(2022)には写真のように更地になってしまいました。昔ながらの風習がまたひとつ消えてしまいました。どうか後方に見えるケヤキは伐られないでほしいものです。
▶森町消防小屋脇のお稲荷さん
平成19年(2007)7月16日(月)、森町消防小屋の脇にあるお稲荷さんを撮った写真です。
お稲荷さんは日野宿内でもよく見られますが、こんな風にさびしそうに佇むお稲荷さんは初めて見ました。そんな不安が的中してしまいました。翌年、この一角が駐車場になったとき、このお稲荷さんはどこかへ消えてしまいました。
おそらく信仰心のあつい人によって建てられたものでしょうが、こうして歴史の流れの中に葬りさられていくのを見るのはつらいものがあります。
▶波除稲荷
特養老人ホーム「カトレア」近くの松本さんのところに「波除稲荷」があります。
個人宅にあるので壁越しにしか見られませんが、戦時中は戦地で銃弾に当たらぬようにとか、船が被弾しないようにとか、このお稲荷さんに願掛けをして出征したそうです。
雪遊び
雪の日は子どもたちにとって別世界が広がる楽しい遊びの空間でした。昭和30年代、昭和40年代の写真や映像が残っています。
▶春さきの大雪 昭和33(1958)年3月29日 東尚士氏撮影
雛祭り
端午の節句
▶松本保家の鯉のぼり(北原)
北原の松本保さんのところの鯉のぼりです。これだけのものをあげているお宅は今はあまり見かけません。近くの幼稚園の園児たちが目を丸くして見ている姿が微笑ましい限りです。
日野宿には下町に「鈴藤」という人形屋さんがあります。そこで作られた鯉のぼりや五月人形がかつては日野宿のどこのお宅でも見られたようです。
▶三浦清司家の内幟(仲町)
男児の端午の節句を祝う内幟(うちのぼり)です。母方の実家から鯉幟(こいのぼり)や幟旗(のぼりばた)が贈られ、家の中に飾られました。
鵜飼い
日野宿には鵜飼いを見せながら鮎料理をふるまう玉川亭という店がありました。
明治20年代に天野要蔵が旧渡船場近くに玉川亭を開業し、甲武鉄道を利用して多くの客が押し寄せにぎわったそうです。
天野一利氏の父親が亡くなった後も、母親の手によって営業されていましたが、昭和10年代についに閉店したそうです。
写真No.1182の中央の男性が一利氏の父親で、店では6、7羽の鵜を飼っていたといいます。
夏休み
▶川遊び
川岸が当時は蛇かごでした。
戦前は毎年のように深みにはまって亡くなる子どもがいました。昔はプールなどなかったので、多摩川で年上の連中から手荒な方法で泳ぎを教えられたそうです。また仕事帰りに多摩川でひと泳ぎして帰る勤め人もいたということです。
農薬や工業用水の流入により川の水質悪化が進み、川遊びができなくなる昭和40年初頭まで、多摩川での水遊びは夏の風物詩でした。
川遊び‐日野橋下 昭和初期
佐野勉氏所蔵
川遊び 昭和30年前後(1)中央線多摩川鉄橋下流
志村章氏撮影
川遊び 昭和30年前後(2) 中央線多摩川鉄橋下流
志村章氏撮影
多摩川鉄橋下で川遊びをする子どもたち 昭和20年代初頭
稲谷順子氏・怜子氏・矩子氏・治子氏所蔵(現在:日野市郷土資料館)
川遊び ‐ 多摩川鉄橋上流側
T.S氏撮影
盆踊り
日野一小校庭で開催された盆踊り大会です。中央に設置された櫓の周りをおそろいの浴衣姿で、定番の「東京音頭」や「炭坑節」などを披露しました。また、町民運動会や学校の運動会などでも盛んに盆踊りが行われていた時代です。
なお、「日野音頭」は昭和35年(1960)に完成し、日野第一小学校校庭で発表会が開かれていますが、その時に着た浴衣と下の写真に写っているものと同一のようです。
▶第3回日野町民運動会(合併後) 昭和35(1960)年10月16日(日) 東尚士氏撮影
お釜様ダンゴ
お釜様(かまど神)とは竈の神様・荒神様のことです。
10月は他の神様がみんな出雲に帰られてしまうが、お釜様だけは地元に残りひとりでご馳走にあずかり、10月30日にようやく出雲に帰られるそうです。
写真のように藁苞(わらつと)に入れたダンゴをお土産としてお釜様に持たせて見送るという風習です。
2017-01-18
松本保氏撮影
産業祭
北原の松本保さんが今年の農産物の実りに感謝して作った宝船です。産業祭に展示する前に図書館に顔を出されたときに撮影したものです。産業祭はかつては日野市役所前広場で、現在は市民の森ふれあいホールとその周辺施設で毎年11月に開催されています。
2007-11-16
芋煮会
秋の収穫に感謝して自宅の庭先で行われた芋煮会の様子です。
結婚式/披露宴
昭和30年代の上田地区で挙行された結婚式の様子を紹介します。
当時は自宅で行われるのが一般的でした。近所づきあいも今より濃い時代だったので披露宴には招待者も多くことのほか盛大だったようです。
渦高く積まれた祝いの品々
お祝いの歌を披露
葬儀/葬式
昭和初期から昭和40年代の葬儀・葬式の様子を撮った写真です。
昭和初期には遺族の女性たちが白い喪服を着ているのが特徴的です。
昭和10年代初期には戦死した兵士の葬儀を町で行っているのがわかります。
しかし戦況が厳しくなると町の葬儀はなくなり、各家での個別の葬式となっています。
戦後も昭和40年代にもなると平和な世の中になり、残された人たちによって故人を厚く弔う様子が見えます。
志村吉三氏のお母さんの葬儀-葬列
昭和初期か
三田晴道氏所蔵
村野宗一郎君町葬 1937
志村章氏撮影
葬儀 1942 ‐ 馬場謹治氏 ‐ 馬場家
馬場嘉徳氏所蔵
安養寺に向けた葬列
昭和30年代
鈴木英夫氏撮影
馬場岩松氏葬儀-葬列 1967(2)大昌寺参道
馬場一衛氏所蔵
馬場岩松氏葬儀-葬列 1967(3)大昌寺参道
馬場一衛氏所蔵
馬場岩松氏葬儀-葬列1967(4)大昌寺
馬場一衛氏所蔵
日野町火葬場 1972
古谷梅吉氏撮影